羅振玉 ら・しんぎょく

力行古義不顧俗
 力行の古義 俗を顧(かえり)みず
實用人才即至公
 実用の人才 即ち公に至る
23p×131p聨

同治5年(1866)生〜民国29年(1940)歿
製作年  不明
 字は叔言、また叔薀・叔信。雪堂と号し、堂号を貞松といった。浙江省上虞の人。清朝に仕え、学部参議や京師大学堂農科監督に任ぜられた。中国の学術振興に志をたて、農学の改良につとめた。ついで東文学社をおこし、日本人教育者を招いて、教育制度の改善に力を尽した。1911年辛亥革命で日本に亡命し、京都に寓居した。そして内藤湖南、狩野直喜ら京都大学の諸教授と往来し、考証学の学風を振興した。1919年帰国して天津に住んだが、一時は退位した宣統帝を輔佐してその教育にあたり、1932年満州国設立とともに、参議や監察院長などの要職を歴任した。1938年辞任して旅順に住み、学問研究に余生を送った。清朝考証学の最後を飾る学者であるが、時たまたま新資料が発見される黄金時代にあたり、きわめて多彩な業績を残した。
 19世紀末から1920年代にかけて、孫詒譲や劉鶚(1858〜1909、字は鉄雲。江蘇省鎮江市の人。著に『鉄雲蔵亀』などがある)らによって注目されはじめた甲骨文字。英のスタイン、仏のペリオらによって敦煌地域で発見された漢晋の木簡や六朝時唐の古写本。内閣文庫からの明清档案の出現。その他新資料があいついで発見され、かれは女婿の王国維らとともに、それらを収集保存し、研究に力を尽した。とくに著名な業績は、孫・劉二家の研究を発展させ、王国維の協力で成った『殷商貞卜文字考』、『段虚書契(前・後・続)編』、『殷虚書契考釈』、『契文挙例』などを著したことである。かれと王国維の甲骨文字の解読法によって、漢字の字形は、周代の金文から殷代の甲骨文にさかのぼって、研究ができるようになった。また『流砂墜簡考釈』は、中国最初の木簡研究書であり、『敦煌石宝遺書』・『鳴砂石室佚書』などは、古写本の複製である。なお金文関係には『三代吉金文存』、古刻では『芒洛冢墓遺文』、『漢熹平残字集録』、『雪堂文字跋尾』などがあり、各分野にわたって、考証学を主とした研究による新資料を学界に提供した。その著述は百種を越え、子息の福成・福頤(1905〜1980。予期と号し、金石考証学・印学に精通した。『古璽文字徴』、『漢印文字徴』、『古璽文編』・『同・彙編』などの著がある。)・福葆を助手として学界に貢献した功績は、はかり知れない。これらを集大成したものに『羅雪堂先生全集』がある。
 1921年には、書家の揮毫の一助として、殷虚文字を集めて『集殷虚文字楹帖』を刊行した。また自らも甲骨文字を書に試みた。金文を臨したものもあるが、居ずまいの正しい、小型ながら澄んだ書風である。


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