山中 信天翁 やまなか しんてんおう
   

松下霊芝図

釆芸重皐皋蘭
石路松雲秀
得々夕還家
日○猶滿袖
松下霊芝図

釆芸(=ばらばらに植える) 皐(さつき)蘭 重なる
石路(=石ころの多い道) 松雲秀で
得々(=わざわざ) 夕に家に還える
日○ 猶お袖に満つ
131.7p×32.2p

文政5年(1822)生〜明治18(1885)年5月12日歿
 平七村(現在の碧南市)に山中子敏の二男として生まれる。幼名は松寿、名は靜逸、実名は献、字は子文、信天翁は号で、別号は二水、通称は七左右衛門。
 少年時代、大坂に出て篠崎小竹に学んだが、弘化4年(1847)に父の子敏が亡くなったので、一時家を継ぎ寺子屋を開いた。
 弟の猷(二男)は、この時、大坂に出て、緒方洪庵の下で、医学等を学んでいたが、幕末の騒然とした、世情の中で、国事・政事に強い関心を抱き、その情勢を、信天翁へ告げていたが、嘉永7年(1854)に急死した。
 信天翁は、この弟の志を果たしたいと思い、家を弟(三男)に譲り、国事に尽くす為、京都に赴き、梁川星巌、梅田雲濱、頼三樹等と交わり、公卿諸家に出入りし、勤王に尽くした。安政の大獄には難を逃れて身を隠し、幕政改革に奔走した。
 明治維新の主役を勤めた公家の岩倉具視と親交を深め、その許にあって、山本復一と共に、王政復古の大令の創草の起草につくし、1868年の鳥羽伏見の戦いでは、朝廷側の食料や軍事費の調達の任に就いたほか、東京遷都の際には明治天皇の御用掛を勤めて金穀調達にあたる等、種々尽力された。
 後、明治新政府となった時、會計官 驛逓司知事に任じ、更に、明治2年(1869)桃生縣知事に任ぜられ、まもなく石巻県(今の岩手県)と改められ、更に登米県(今の宮城県)に合併し、その知事に任命されたが、そのために前任知事が罷免されることを心痛し、すぐさま辞表を出した。
 新しい世の中を、人々の喜ぶ時代にしたいという願いから、農民一人一人の幸せを考えた政治を行い、「仏の山中様」と呼ばれるようになった。
 一方で、学者、詩人、画家として、京都において尊敬を集め活躍され、特に、南画界では、村瀬太乙、土井聲牙と並び、其の横溢する自由さと奔放さによって、賞賛を集められ、海外に於いても、高く評価された。
 1873年すべての宮家奉職から退き、京都の下加茂に住み、嵯峨に「対嵐山房」を築いて文芸の道を楽しんだ。1885年に63歳の生涯を閉じ、明治維新の功労により正五位を受けた。1913年に従四位を受けた。


推奨サイト
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/seisan/sei124.htm
http://www.city.hekinan.aichi.jp/TOSHOKAN/hekinan/izin/hkizin07.htm
http://d.hatena.ne.jp/OTAPY-DrBEAUT/20081204
http://www.aichi-kyosai.or.jp/service/culture/internet/culture/tea/tea_8/post_546.html
http://www.city.hekinan.aichi.jp/TOSHOKAN/tomonokai/kaihou/86/kaihou86.htm
http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_aiu.php?key=ya&s=200
http://www.shogaya.com/html/yamanaka-sinteno21.htm
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-1623.html


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