山本 梅崖 やまもと ばいがい
   

嘉耦好逑能成
五十年之瑞
緑蘿瓜蒿以徴
一百歳之祥
嘉耦好逑(=仲の良い夫婦) 能く成す
五十年の瑞
緑蘿(=緑色のツタ)の瓜(うり)(よもぎ) 以って徴(きざ)
一百歳の祥
130.1p×52.4p

嘉永5年閏2月12日(新暦 1852年4月1日)生〜昭和3(1928)年9月6日歿
 土佐(現 高知県)の生まれ。名は憲、字は永弼、幼名は繁太郎、梅崖・梅清処主人と号した。謚は文節夫子。
 先祖は、武田の軍師 山本勘介。家は代々学者を輩出し、梅崖はその5代目に当たる。父 山本竹渓は安積艮斎の門下で斉藤拙堂・佐藤一斎・大槻盤渓らと親交があった。藩学「明教館」で竹渓が講じるなど早くから学問を授かる環境にあった。
 14歳で高知の藩校・知道館で松岡毅軒に師事し、明治元年(1968) 17歳で、開成館で英語を習得、「知道館」の助教を努めた。明治4年大橋春風の家に寄宿、「育英義塾」で洋学を学ぶ。
 明治8年「大阪新報」の記者、さらに岡山 の「稚児新聞」「中国日日」の主幹を務め、また「越後新聞」にも招かれた。
 明治15年大阪に「梅清処塾」を開く。『古文真宝抄注釈大全』『文章規範講義』『訓蒙四書』『史記抄伝講義』などの大作を著す。
 明治18年(1885)、自由党左派の大井憲太郎、小林樟雄らが、朝鮮の志士・金玉均らと共同して朝鮮革命を実現させようとした事件、「大阪事件」が起こる。その前年、金玉均らは朝鮮で「甲申政変」と呼ばれるクーデター事件を起こして失敗し、日本に亡命していた。梅崖はこの事件に積極的に関与し、有名な「告朝鮮自主檄」という檄文を作った。この檄文では、朝鮮は元来自主独立の国であるのに、清国がその国権を奪って属国とし、朝貢を強いていることを嘆き、アメリカ合衆国が英国から独立したときにフランスがアメリカに加担したように、我等も大義名分のために朝鮮に加担しようと勧めている。しかし、大阪事件の本当の目的は、朝鮮のことを発端として日清間に戦争を起こさせ、その混乱に乗じて藩閥政府を除くことにあった。梅崖は檄文を書くだけでなく、志士らを塾生のように装ってかくまったが、事が露見して130名の志士らが逮捕され、梅崖も首謀者の一人として下獄した。梅崖の塾が官憲によって捜索されたとき、梅崖の母堂が志士300名の連判帳を井戸の釣瓶に入れ、石をつけて井戸の中に沈めておいたおかげで、200名ほどの同志は助かったという。
 明治22年(1889)、梅崖は憲法発布による大赦で出獄された。しかし、その後自由党の堕落を眼前にして、政治とは一切絶縁し、梅清処塾での教育に専念した。このころ、大阪事件によって梅崖の名声は天下に広まり、塾も大盛況で、大阪では藤沢南岳の泊園塾と並び称された。
 日清戦争後の明治30年(1897) 中国に渡り政界・文人と交流した。その中には戊戌変法の主唱者である康有為や、曽国藩の子息・曽広詮らもいた。康有為が戊戌変法に敗れ、明治31年(1898)日本へ亡命したときは、梅崖が世話をした。このような経緯から、清国留学生が多く先生の塾に集うようになった。
 明治38年(1905)、梅崖は岡山県の牛窓に隠棲して著作に専念する。蔵書は岡山図書館に寄贈され「山本文庫」といわれたが戦災をうけた。
 代表的著作に『梅清処文鈔』『梅清処詠史』『燕山楚水遊記』『四書講義』『論語私見(未刊)』等がある。
 「梅崖憲」の下に、白文の「山本憲」、朱文の「梅崖」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www.morikinseki.com/chousa/h1706.htm
http://kambun.jp/writers/yamamoto-baigai.htm
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-510.html
http://www.shitennoji.ac.jp/ibu/images/toshokan/kiyo45-02.pdf
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi06/chi06_04734/index.html


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