五十川 訊堂 いかがわ じんどう
   

臨風弄笛
欄干上桂影一輪
掃雪烹茶
籬落邊梅花數點
録劍掃集語
風に臨みて笛を弄べば、
欄干上に桂影一輪あり。
雪を掃いて茶を烹れば、
籬落辺に梅花数点あり。
 録す 『酔古堂剣掃』 陸紹珩(湘客)著の集語
参考文献  『醉古堂劍掃』 陸紹珩 笹川臨風校(聚精堂 明43.9) 
134p×66p

天保6年(1835)5月28日生〜明治35年(1902)2月19日歿  
 福山の人で、名は淵、字は士深、通称は卓介・左武郎、号は初め勤齋のち訊堂と称した。藩医五十川義集の次男。幼時に父を亡くした。姉の夫は江木鰐水。一時、鈴木秉之助の養子となった。
 訊堂は、天保13年(1842)8月〜天保14年(1843)10月まで、藩校誠之館に入り、関藤藤陰に学び、天保14年(1843)11月〜嘉永5年(1852)正月まで、姉の夫・江木鰐水の薫陶をも受けた。嘉永5年(1852)2月〜嘉永6年(1853)12月まで備中坂谷希八郎に学んだ。のち、安政元年(1854)正月〜安政2年(1855)8月まで、江戸昌平黌で林鶴梁などに学んだが、在学2年にして帰郷、安政3年(1856)5月〜安政4年(1857)8月まで沼隈郡藤江村の山路機谷邸にいた森田節斎(謙蔵)の教えを受けた。ついで安政5年(1858)9月〜安政6年(1859)8月まで奥野弥太郎、相馬一郎に学んだ。文久2年(1862)6月幕命により、昌平黌助教となり、慶応2年(1866)9月〜明治元年(1868)4月まで日光督学などをつとめた。
 明治維新後は帰国し、明治4年(1871)9月、旧藩へ帰藩した。明治5年(1872)7月、小田県仮伝習所教員となり、明治6年(1873)から小田県笠岡の小田県教育研究所で、坂田警軒などとともに、巡回教師をつとめた。明治7年(1874)3月、小田県伝習所を廃して公立師範学校を設立するのに伴い、教員となった。公立師範学校では、洋算分数術の説明は実に分かり易かったという。明治9年(1876)12月、広島官立師範学校設立に伴い、予科教員をつとめ、明治10年(1878)5月、堺県師範学校予科教師、明治11年(1879)3月、堺県師範学校予科一等訓導を勤めた。明治14年(1881)2月からは大阪府堺師範学校一等訓導、明治14年(1881)7月、大阪府立師範学校、明治14年(1881)10月13日、大阪府三等教授、明治17年(1884)5月5日、大阪府二等教授、明治20年(1887)、大阪府尋常師範学校と改称され教授に任じられ、大阪に16年勤続した。
 明治30年(1897)7月9日、依願免職して帰郷し、明治31年(1898)3月から明治35年(1902)2月19日の病没まで、福山誠之館で嘱託講師として漢文・修身を教えた。彼は資性温厚、文・書ともに当地方に及ぶ者なしといわれた。
 訊堂は大いなる志を持って著作に励んだ。できあがるや、その都度近藤元粹、阪谷朗盧、塩谷宕陰らに送り、批評を頼んだ。著書に『竹雨山房文鈔』3巻と『文界一滴』などがある。
 「訊堂隠士淵」の下に、白文の「淵字士深」、同じく白文の「後菴眞逸」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/ikagawa-jindou/ikagawa-jindou.htm
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-897.html


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