第2巻 14 藤原楚水著 省心書房魏の書学と石刻
この時代の書家として著名な人は、魏の鍾繇、邯鄲淳、衛、韋誕、呉の皇象等があった。しかしこの時代の書学は、ただ漢の余勢を受け継いだだけで、特に進歩の見るべきものはなく、その遺跡も極めて稀であった。
魏の石刻には上尊号・受禅・孔羨・范式・王基・曹真・及び李苞閣道等の諸刻、呉には谷朗・国山・天発神讖の諸刻を存するにとどまり、蜀には片石も存しない。
またこの時代に於ける禁碑の令によるところも少くない。この制度はこの後ゆるめられ、変えられたものか、晉の武帝の咸寧4年(278)に厳禁した。このような諸種の理由によって、この時代の刻石は今日多く伝わらないが、わずかの刻石ながらも、それを通じて当時の書道界がいかなるものであったかを知り、またそれによって書体変化の跡を探り得られる。さればこの数基の碑が、書道史の研究上に有する意義は、極めて大なるものがあるのである。
1 公卿将軍上尊号奏碑(黄初元年・220)
黄初元年(220)3月、後漢が滅びた。 魏王曹丕は後漢の献帝から帝位を禅譲され、魏帝となります。 この時家臣が曹丕に即位を勧めた奏上文は公卿将軍上尊号奏と呼ばれ、受命を明らかにした受禅表とともに石碑に刻され現存している。
この碑の書は隷書としては格の稍下ったもので、所謂魏隷の一体をなしているものであるが、隷書が後漢に全盛を極め、これより漸く遞変遞降して行った径路を見るべき好個の参考となるべきものである。
2 受禅碑(黄初元年10月・220)
この碑は上尊号碑についで立てられ、群臣の勧進を容れ、曹丕が後漢の献帝より禅譲をうけて魏の初代皇帝の位に即いたことを記したものである。
魏の碑文はおおむね隷書の一種の八分体で記され、漢時代の八分と比べてリズム感に欠け、運筆に硬さは見られるが、造形の面では堅実に古様の書体を継承していると言える。
この碑の書者については、唐以後、諸家の説がいろいろで、或は上尊号、受禅ともに鍾繇の書と為し、或は梁鵠と為し、或は鍾・梁の二人に分属せしめ、また受禅表は衛覬の書であるとの説もある。
3 封宗聖孔羨碑(黄初元年・220)
碑は山東曲阜の孔子廟に立てられている。
孔子21代目の子孫にあたるという孔羨を宗聖侯に封爵して、孔子廟を修理させたことを述べた石碑。八分の字姿を保ちつつも、波勢は乏しく、筆画はより直線的になっている。
この碑がすでに漢隷の醇古の趣を失い、隷書としては書品の高いものでない。
4 黄初残碑(黄初5年・224)
この碑はわずかに数十字の残石であるが、古くより書の妙をもって有名であり、諸家の著録しているものも少くない。残石は四塊現存し、これが同一の碑であるかどうかについても諸家の見るところは一致しない。
5 廬江太守茫式碑(青龍3年4月・235)
この碑は久しく佚していたが、乾隆の間、再び出土した。古来頗る著名のもので、書者については、諸家の説がいろいろである。
この碑の書は勁利の中に於いて出すに醇厚を以ってし、而も頓挫節制があって、神采の煥発せるものである。即ちその書品は、高く漢末の皇象や梁鵠諸家の上に出ている。
この碑は特り書法の源流、変化の跡を尋ね得べきのみでなく、又以って蔡邕の書の如何なるものであったかをも窺うべき貴重なる資料であり、後来、欧陽詢の書法の秘も筆々この碑より得たるもので、学書者のまた大いに注目を要する点であろう。
6 東武侯王基碑(景元2年・261)
この碑は河南省洛陽市で出土し、乾隆の出土で、嘉慶でない。現在は洛陽古代石刻芸術館河南省の洛陽古代石刻芸術館にある。
この石は断缺したものでなく、碑は完好では、只半截だけ刻字し、半截は朱をもって書かれたままで、いまだ刻さずに地に没し、そのまま近年に及んだものである。
7 大将軍大司馬曹真碑残石(無年月)
この碑は道光年間(1821−1850)の出土で、曹眞の死後、墓地ではなく、曹眞の任地の長安に建てられた徳を讃える碑。
書は、漢隷からは既に頗る離れたものだが、字形はやや方形で、横画の起筆と収筆の稜角がはっきりと確認でき、これによって魏の隷書の特色を窺うべく、またこの時代において、隷書は漸く全盛時代を過ぎて、後の唐隷を開き、次第にその格調を降下させつつ、次に来るべき楷書にその途を開いたものと見るべく、隷書の変遷や発展を知る上で好資料たるを失わない。
皇女残石
清咸豊5年(1855)洛陽で出土。
毋丘倹紀功刻石(ぶきゅうけんきこうこくせき)
「丸都山紀功刻石」「高句麗残石」とも称される。吉林省輯安県出土。知県・呉光国が、光緒32年(1906)に道路修築の折りに発見したと伝えられる。
毋丘倹が高句麗を魏・正始6年(245)に討った時の功績を記念して建てられた碑の残石。碑陰には、談国桓等らの観記や跋文が刻されている。
この碑の発見者・呉光国が、光緒32年に日本軍人の堀米大尉に跋文題記を付して贈った拓本が、戦前に日本で影印され、早くに日本では紹介されてきた。正始6年の紀年があり、隷書だが、漢隷とは趣が異なり、魏の「孔羨碑」や「受禅碑」の筆勢に近い。
三体石経のいわれ
曹魏の刻石中にあって、最もその規模が大きく、後世の文字書体の研究に影響を与えたものに三体石経がある。漢の初めて興るや、秦の暴虐を以って詩書を焚きて亡びたるに鑒み、儒術を表章し、遺書を捜集し、広く献書の路を開き、経術の士を尚び、学校を起し名節を砥励するに力を用いた。
西漢に於いては武帝以後も、書物の収集に意を用いたことは一度ばかりでなく、郡国にもまたこの風が大いに行なわれた。河間献王徳は、好古にして学を好み、民間より善書を得たと伝えられている。
漢に代った魏もまたこれを努めた。『随書』に「魏氏、漢に代るや、遺亡を采援し、蔵して秘書、中外の三閣に在く。」とあるように、遺書を捜採し、これを宮中に保存すると共に、漢の熹平石経に倣って正始年間(240−249)に経書を石に刻した。これが世にいうところの正始石経である。
古文・篆書・隷書の3つの書体により共通のテキストが書かれていることから、俗に「中国版ロゼッタ・ストーン」といわれる。
原石は断片が5つ残されており、中国の洛陽博物館と日本の台東区立書道博物館のほか、複数の個人が所有している。
漢の熹平石経は、隷書の一体をもって書してあるが、正始石経は古文・篆・隷の三体をもって書かれているから、世にこれを三字石経とも、三体石経とも称する。
この石経は洛陽城南の開陽門外の太学講堂の前に、漢の熹平石経と並んで建てられてあったが、晉の永嘉年間(307−313)に悉く崩壊し、その後数次の喪乱を経て、或は土中に没し、または柱礎石砌となり、唐の貞観(627−649)の初めに、魏徴が残石を収集したときには、十のうち一、二しか存在しなかったといい、その拓本も唐の中宗・睿宗以後は既に散佚し、その後はわずかに華刻本を伝えるに過ぎなかった。
三体石経の書体
三体石経の書体は、清の光緒年間(1855−1808)、残石の新に出土するものがあって、此によってその書の三体であったことが確認され、またその刊刻した経伝の字数と、碑石の収容字数とを計算することによって当時建てられた碑の数も大体推定できるようになった。
三体石経中の古文は、先秦時代の古器の銘文とその体が異なり、腹が太く頭と足の尖ったものや、頭が大きく、下の尖ったもので、蝌蚪の形を思わせるものである。
鍾繇の人物
鍾繇(151−230)は、秦の李斯、漢の蔡邕、張芝等とともに書道史上に最もその名が高く、上尊号碑、受禅表なども、その書であるといわれ、歴代書を論ずるものでその書の妙を称せざるものはない。
鍾繇の書学
鍾繇の書学については、『金壷記』にその書学に精進していたとあり、『虞喜志林』によれば、その事は荒誕に属するも、書学に苦心したことの尋常でなかったことが窺われる。
鍾繇の諸帖
鍾繇の書蹟は、古来伝世のものは全く無いといってよいほどであるが漢末より三国にかけ、書学の泰斗であったことには誰も異論がなく、古来伝わっている『伝授筆法人名』にも、これを書法の祖と為し、王羲之、王献之は論なく、後の唐の諸家も、皆鍾緜を法としたものであると為し、後世の書を論ずるものも大体これを認めて異説がない。
鍾繇の書といわれるもので、旧くから法帖に刻されたものに、宣示・還示の二帖があり、これにつぐものに賀捷
表・力命・薦季直表がある。これが果して鍾繇の書であるか、或は王羲之その他の臨本であるか、今日これを証明する方法がないが、この時代既に楷書の一体が完成されていたことは、近年西域地方において発掘された漢末の老女人経等の筆意から見て大体疑いがないであろう。
1 宣示表
この帖は古来非常に有名なもので、始めて淳化閣帖に刻され、大観帖・東書堂帖・宝賢堂帖・停雲館帖・墨池堂帖・玉烟堂帖等に刻されている。この帖は、真蹟はその後滅んで、今伝わるものは王羲之の臨本であるとされている。
2 還示帖
淳化閣帖、大観帖を始め、諸帖に刻されているが、停雲館帖には、これを見ない。これも摹刻が頗る多いが、宋拓大観帖のものが尤もすぐれたものとされている。
3 賀捷表
戎路表ともいう。これも宋人の彙帖中に見え、真偽の弁のやかましいもの。
4 薦季直表
元に至って初めて世に現われたもので、真贋両説の殊にやかましいものである。
元のとき陸行直の家にあったが、明の中葉に至って沈啓南の得るところとなり、旋いで華東沙に帰し、真賞斎帖に摸刻し、次いで鬱岡斎帖に刻し、清朝になってからは御府に入り、三希堂帖に刻された。
力命表
白騎帖
墓田丙舎帖
鍾繇の時代は隷書の一体についていえば、極盛であった漢の余波延長に過ぎず、いわゆるその残照とも見るべきものであるが、漢末に萠芽した楷書は、この時において隷書に代って通行の書体となりつつあって、漸く完成の域に達したかに思われ、鍾繇がこの時代に於ける代表的大家であったという点は、特に書道史上重要性があるが、その信ずべき真蹟が伝わらず、隷楷遞変の次第を推定すべき確証のないことは甚だ遺憾である。後の王羲之等の楷行草が突如として、現われたものでなく、この時代に胚胎し、漸進漸熟したものに疑いなく、即ち王羲之等の書は鍾張を祖述したものであり、鍾鯀の書として伝わるものに、王羲之の臨本が存していることも、必らずしも根拠なしとしないであろう。
三国は攻伐相継いだが、王室士人の書画を好くしたことは、漢にくらべて優るとも劣るなく、魏の曹髦、呉の孫権、蜀の諸葛亮、張飛、みな書画を好くし、書画家の典籍に見えるものは六、七十人を下らない。すなわち呉においては皇象、蘇建等最も後世に有名である。その他、張超、陳梁甫、みな能書として世に聞え、画には趙夫人及び曹不興があった。
呉の刻石は建業を中心とし、歴代帝室の陵墓に、石獣、石碑、及び神道、石柱等の遺物が多く存していたこと
は、文献の記すところにより明らかであるが、なお、いまだにその遣物の発掘されたのを見ない。将来発掘の結果、必らず多くの収穫のあることを疑わないが、今日においては古くから伝わっている九真太守谷朗碑、禅国山碑、天発神讖碑等の数者について、この時代に於ける南方地方の書道の概要を推定するの外はない。
1 九真太守谷朗碑(鳳凰元年4月・272)
現在は耒陽の杜祠に蔵されている。
書体は、隷書に属すべきものであるが、既に漢隷からは遠く離れ、字はすでに波磔が少なく、殆んど楷書といってもよいほど隷意からやや遠くなっている。かつその文字には異体のものが少くない。
楷法はまだ成熟完備していないが、すでに隷書が楷書にむかう過渡的な形態に属しているので、そのため、楷書が碑に刻された最初であり、後世の書法に深い影響を与えたという人もいる。
谷朗その人については史伝に見えず、著録家もまた往々説を異にしている。
2 封禅国山碑(天璽元年7月・276)
「封禅国山碑」「天紀碑」とも、俗に「団碑」「圃碑」とも称する。天璽元年(276)の立碑で、石は江蘇宜興にある。
碑石の形はやや円く、篆書が四面に環刻されている。
この碑は孫皓が天冊元年(275)に国山に禅し、その即位以後に獲た郡国の祥瑞、凡そ千余言を叙してこれを石に刻したものである。この年は晉の咸寧元年(275)に当り、後5年にして、呉は晉に滅ぼされた。
この碑は漫濾甚だしいが、書者は、存字によって中書東観令史立信中郎将蘇建であることが明らかである。
蘇建は皇象と共に呉に於ける書道の大家であった。
この碑の書は、李斯の秦篆にくらべては、もとより及ぶべきものでないが、秦篆の真刻は字数の多いものはなく、漢にもまた篆書碑は少いので、篆書を研究するには、この碑なども、重視すべきもののひとつとして取り扱わなければならない。
篆勢が遒勁で、結体はゆったりとし、隷意がゆたかなので、篆に非らず隷に非らず、最も奇古と為すとみなされた。
3 天発神讖碑(天璽元年8月・276)
一 碑の由来
この碑は一に天璽紀功頌ともいう。この碑の立てられた理由については、多少の違いはあるが、石瑞によって呉主孫皓の徳を頌したものにほかならない。
この碑は、もと一石で、それが断裂して三石となったと、歴代の著録家の皆信じて疑わないところであったが、羅振玉氏は全く説を異にし、始めから三個の石を累畳して、それに刻したもので、一般の碑とは全然形式の異なったものであるという新説を出している。原石を見なければ、その確否の断定はできないけれども、羅氏の挙げるところは、大いに納得する点がある。
碑石はもと江蘇南京の天禧寺にあったが、のちに府学の尊経閣に移置され、嘉慶10年(1805)に校官毛藻が王氏『玉海』を印刷したとき、失火によって、この石は焼けてしまった。
2 碑文・文字考
この碑は石が三段に断れ、文字の接続が不明で、学者は読解に苦しんだが、周在浚に至って、始めて三石を貫聯してその文を読んだ。
書法を見ると、篆のごとく隷のごとく、古気あふれ、字の勢いが奇偉で、生渋険勁の方筆をもっぱら用いている。
3 碑の書者
この碑の書者については、諸家の多くは皇象の書としている。これに反して蘇建の書なりとする説は極めて少数であり、又皇象、蘇建いずれとも断定していないものもある。
衡陽太守葛祚碑額
年月は欠けるが、呉の碑である。碑は元代にはじめて江蘇省句容県で発見され、碑額12字のみが存した。
その後、人々から重視されず、孫星衍が乾隆年間にこの碑を訪れたときに、拓本がはじめて流伝して、注目されるようになった。しかし碑文はくずれて一字も存せず、碑額の「呉故衡陽太守葛府君之碑」楷書三行一二字が存するのみである。
孫星衍は、楷法が碑碣に見えるのはこの碑に始まるという。書法は質朴でゆたか、楷法が成熟し、すでに「谷朗碑」がなお隷意を帯びているのと異なる。
篆書を学ぶには資料が尤も少く、ひろく碑額にまで及ばなければならない。碑額はその字が少く、天発神識碑のような巨製を存することは、書学の源流を探り、篆隷が次第に変っていく様子を知るにおいて、得るところが少なくない。すなわち呉の刻石はわずか三石に過ぎないけれども、書道史上、最も重視すべき遺刻たるを失わないであろう。
三国のうち蜀漢には、当時の丞相諸葛亮明、諸葛廱父子は書画をよくしたことで世に聞え、亮に南夷図があり、また篆隷八分均しく工みで、先主鼎を鋳、後主剣を鋳たとき、その銘は亮が多く書いたという。宋の宣和の御府に、その草書遠渉帖を蔵したというけれども、今は見ることができない。
蜀漢の碑刻は、まだひとつも出土したものがない。蜀漢の書については、その研究を他日に待つほかはない。