第2巻 12・13 藤原楚水著 省心書房西域とは、甘粛の西境から新疆の天山南路に当り、世に東トルキスタンと呼ばれる地方である。この地は北西南の三面を天山、葱嶺、崑崙の大山脈に囲まれ、その一方だけが中国の本土や、蒙古の沙漠に連った東西1500マイル、南北500マイルの盆地で、中央に流沙といわれるタクラマカソの大沙漠が広がり、人の住み得る地方は、僅に三方の大山脈の麓と流沙との間に存する小地帯に過ぎない。
漢の時代にはこの地方に36の小国が存在し、後には五十余国と称された。
中国とイソド、ペルシア、西アジア方面への交通は、この地を通じてその後も引続き行なわれ、東西の文化がこの地方を媒介として交流融和し合った点に、文化史上この地方の重要性があるのである。即ちこの地方の
探検が特に東西学者の注意を惹くようになった理由も、またその主眼がこの点に置かれたものであることは言うまでもない。
西域地方の探検発掘に従事した学者は、数十の多きにのぼりが、そのうち成績の最も見るべく、また書
道史に深い関係のあるものは、ハンガリヤ人でインド政府に招かれていたサー・オーレル・スタイソ(Sir Aurel Stein)、フランスのポール・ペリオ(Paul Pelliot)、スウェーデンのスウェン・ヘディン(Suen Hedin)の諸氏であり、ドイツのル・コック、わが国の橘瑞超の諸氏もまた貢献があった。
スタインその他の発掘の結果が、世界の学界に寄与した貢献は、各方面にわたって実に偉大なるものがあったが、単に中国関係についてみても、その学界に及ぼした影響の極めて大である。
スタイン等の発掘の結果は、学界に種々有力な考証の資料をもたらし、中国の学者はこれに驚異の目をみはった。羅振玉はわが国に亡命中、シャヴアンヌのLes documents chinoisの図版991片の中から588片を択んで玻璃版に付し、各考釈を付し、宣統甲寅(1914)、即ちわが大正三年、京都に於いて『流沙墜簡』と題して出版した。
その図版はシャヴアンヌの本から複製したものであるが、考証に於いては多くの見るべきものがあり、又、シャヴアンヌの原著は大学または専門家の間に蔵されるに過ぎず、書道その他の方面においてこれに注意するようになったのは、全く羅振玉のこの書の出版に負うところが少くなく、書道の沿革を知り、書体の変化を見る参考として特に編せられたものである。
『流沙墜簡』
楼蘭出土李柏文書
楼蘭故趾発見古文書
楼蘭出土急就篇断片
楼蘭出土故趾発見晉代木簡
楼蘭故趾発見古文書
楼蘭故趾発見戦国策断片
楼蘭故趾発見古文書
西域発見晉代古文書
西域発見漢晉代木簡
漢武威出土木簡玉杖十簡
スタイン発掘の西域の木簡は、羅・王二氏の考証によって一段落を告げたが、シャヴアンヌの書に載せたものはスタインの発掘した木簡の全部でなく、従って羅氏の書に収めたものもその全部でない。他に未発表のものがあり、『漢晋西陲木簡彙編』は、北京大学教授張鳳氏がマスペロより寄せられた未発表の木簡と、シャヴアンヌの書の図版を重印したもので、シャヴアンヌの書を重印した部分を初編とし、マスペロの寄せた部分を二編とし、初編は図版を重印しただけで釈文はなく、二編には釈文はあるけれども考証がない。もとより羅・王二氏の作に
及ばざること遠いものであるが、流沙墜簡の全貌を窺うには、これまた無くてはならぬものである。
『漢晉西陲木簡彙編』の第二編は張氏がマスペロ教授から贈られたシャヴアソヌ未発表のものを撮影付印したもので、羅・王二氏の『流沙墜簡』にないところのものである。その第一編はシャヴアンヌの書中から図版を重印したものであり、用紙印刷ともにシャヴアンヌの原書に較べると格段の相違はあるが、シャヴアンヌの原書を有しないものには、『流沙墜簡』が全くその排比面目を変更せると異なり、これによって以って原書の面目を窺うに便利であろう。
簡策の相違。字類。書体など
簡牘とは、おもに中国の古代に文字が書かれた竹片や木片のこと。 このうち、竹製のものを竹簡と呼び、木製のものを木簡といい、総称して簡牘(「簡」)と呼ぶ。(コトバンクより)
中国の古代に於ける文字の記載には刀刻と書写との方法があり、これを著録すべき物体には金石以外に、竹木が用いられ、これを簡札と称し、凡そ千余年の久しきに亘って使用されたが、後に練帛と並び行なわれ、紙の発明以後も木簡の通行は、省未だ全く断絶するに至らず、その大いに行なわれるようになって竹木始めて漸く廃除されたが、近時発見の実物によってこれを考えると、隋唐の間にも猶盛んにこれを用いたことが窺われる。
古代の簡札が出土したのは、独り近年の発掘だけでなく、その文献に見えるものが五次あった。このうち前五次出土の簡札は散佚したことすでに久しく、文献に就いてこれを知るの外、その実物は見ることができない。
第六次の発掘にかかるものは、即ち前記『流沙墜簡』及び『漢晉西陲木簡彙編』に収載されているものである。第七次の発見は西漢の木簡万余片で、中には三簡編成の永光2年(前42)の文書、及び七十七簡編成の永元5年(93)より7年に至る兵物簿等の簡冊があり、二千年の長い歳月を経ても文字鮮明で、簡編未だ欠け損じていない。
簡策の出土によって知られるものには、地史・小学に関するものを初め枚挙しがたいが、書道史上に於いても書体の変遷、簡牘の形式は勿論、これが編綴、検署、封絨に用いられた封泥等についても新に解決されたものが少くない。
紙の発明以前、中国において文字の写録に専ら使用されたものは繚常であり、又その以前においては竹木であり、金石、獣骨の類であった。
古代文字を著した物質に金石、甲骨、竹木の三者のあり、その材料の相違によって形制は同じでなく、或は冊といい、または策といい、その他、簡・方・版・牘・牒・札等の違いがあった。
詩・書・礼・楽・春秋・礼制・法令・孝経・論語等、その書の内容に従い、策に長短の差があり、その長短にもまた幾種かの区別があり、長いものは二尺四寸、次は一尺二寸、短いのは八寸、六寸と一定の分数比例に従ったものである。これによって律令の書が六経と同じく二尺四寸の策に書せられたことを知るべく、又その如何に尊く重く見られたかを窺うに充分である。又一面には策の長短によって、またその事の軽重を知ることができるのである。
簡冊の相違については、『儀礼』聘礼の疏に、簡は一片に拠りて言い、策はこれ編連の称といい、又既夕礼の疏に、編連を策と為し、編せざるを簡と為すといい『春秋左伝』序疏に、単執の一札之を謂って簡と為し、連編の諸簡は乃ち名づけて策と為すとあるように、一つのものを、簡といい、編して冊としたものを策と称するのである。
簡策に書する所の字数の多少は殆んど確定しがたい。
木簡には草書で書かれたものもあるが、竹簡には草書のものはなく、必らず篆書を用い、然らざるもまた隷書を以って書いた。木簡と竹簡とは自らまたその用方と軽重の差を存した。
簡策の文字は刀刻か筆書か
簡策上の文字は刀をもって書いたか。或は筆をもって書いたのか、これまた研究を要する問題である。
殷・周の書もまた尽くは刀刻を用いたものではなく、漢以後の書刀は、墨書して錯誤のあったとき、これを削去するに供せられたもので、これで字を刻したものでない。
筆と削とはその用、全く別であり、削とは、刪去するところあり、刀を以って簡牘を削るを謂う。
筆とは、古人が刀筆と並称するのは、刻字と筆書と二つの異なったものを指しているのではなく、唯文字を書くという一つの意味に使ったものである。又文字を書いた漆の如きも、それが天然の木汁で、発明や製造を経ずに容易に得られたが為でもあるが、周末既に墨の発明があり、漢の時は墨書が盛行したのであるが、紙の発明があった後も、線素、繚吊等の旧名が用いられたように、後世墨の発明があった以後も、一切の黒色なるものを称して墨といい、また墨書をも漆といったのであろう。
簡策の編法と合綴の方法
簡を編して冊となす方法は、『説文』に、中に二編ありといい、『釈名』に、札は櫛也。之を編すること櫛歯の相比べるが如き也といい、又、簡は間也。之を編して篇篇間ある也とあるによっても、略これを想像できるが、又これを字形に徴すれば、冊は古文に鱒軸の諸形に作り、簡と簡とを上下二ケ所に於いて綴合することが知られる。
綴合には皮革と糸縄とが用いられた。
簡牘の形式・内容・寸法
古代における書籍が発見されたのは、斉の時、楚邱に於いて得た『周礼』の佚文があり、晉の時、汲冢の竹書中に古書七十五篇があったというが、近時スタイソの西域地方に於いて獲たものは、蒼頡、急就、力牧、歴譜、算術、陰陽書、占書、相馬経、獣医方等の書に過ぎない。経典紀伝に至っては尺籍短書もみられず、その多くは所謂簡牘の類である。これにもまた形式及び記事の内容によっていろいろの種類があり、その名称を異にしているから、これを明らかにすることは、古代に於ける文書の形式を知り、その記事を解する上に必要が少くない。
簡には方あり、槧あり、檄あり、伝書あり、牘あり、牒あり、版あり、紙あり、各その形式を異にし、寸法も同一でない。
簡と牘の相違
簡と牘とは並称して、共通の意に用いることはあるが、この両者は全く別のものである。
簡は、『爾雅』に、簡は竹簡也といい、『荘子』に、小夫の知は苞苴竿牘を離れずとあって、注に竿牘は竹簡也といい、『漢書』にも、簡は竹簡也とあって、皆竹で作ったものをいう。
牘は、『漢書』にも、牘は木簡也とあり、木をもって製したものである。然して簡の編綴しているものを冊といい、策とも書く。牘はまた方ともいい、版ともいう。文の短いものは方に書し、方で書ききれないときは策に書す。
簡と牘とは、その寸法も同一でなく、またこれに書するところの数も同一でない。
簡牘の始まりと終り
簡牘の行なわれた時代は、いつに始まり、いつに終ったかというと、竹木の用いられたのは実に太古に始まり、六朝に至ってもなお、行なわれていた。
書牘の封縅と検挾
古は人に送る書信を疏といい、白記といい、或は遺書(貽書)又は具書ともいった。漢魏には大抵これを記するに木を用い、長さ尺を以って制とし、天子は尺一寸のものを用いた。故にこれを尺牘といい、また尺一書ともいった。
書信は発送するに当って板を一枚のせてこれを封じ、その上から封印をした。その板を検という。書信に限らず、他の文書の類も、露布を除く外は皆板を当て、これを封絨した。即ち詔書は皆璽を以って封をしたためこれを璽書といい、倚書令が重封したことが『独断』に見えている。
この外、尺五の伝信は封ずるに御史太夫の印章を以ってし(漢書平帝紀注)、五寸の木伝は封ずるに御史の印章を以ってし(古今注)、以ってその漏泄を防いだ。人臣の章奏もまたこれを絨封させ、書信の如きも、泥を用いてこれを封じ、その上に璽印を押した。『漢書』百官志に封泥と称するものが即ちこれであり、百年来、斉魯の間より多く出た。また近年西域より封絨の実物が出土し、確実にその用法が知られた。
封泥は秦漢の璽印を研究するには絶好の参考となるものである。
この封絨の制度は、王国維の『簡牘検署攷』の中心を為すもので、書道史の研究にもまた深い関係をもつものである。
封牘と嚢
書牘の封絨に、検を用い挾を用いたが、この外また嚢を用いて封ずることも多く行なわれ、いろいろ繁簡の差があった。
古牘と封泥
縄縛した上から封印を施すことであるが、これも文献の上に散見するだけで、実際のことは明らかでなかったが、西域地方の発掘物によって、これが明瞭になった。
封泥のことは秦漢の璽印と共に、書道史の研究に交渉の深い問題である。
書牘・署名の形式について
検挾または嚢の表面に署すべき受書人の氏名、致書人の署名は如何にすべきか。これについて王国維はまた左のようにいっている。
書の封表には受書人の官氏名を署し、致書人は、封印に既にその氏名が明著されているから、又別に之を記す必要がないのであるが、印封の制が廃れて後は、致書人もまた署名することが行なわれ、挾を用いるときは、前検に受書の人名を題し、後検に致書の人名を署することもある。
觚は古代に於ける書籍の形製の一種で、その文字柧と通じ、一に笳に作る。簡牘の別称である。
漢時代においては、金石竹木に文字を書くとともに、縑帛にも文字を書いた。即ちこれを帛書といい、竹簡に書いたものを篇といい、帛に書いたものを巻といった。然して帛はまた古代においてはこれを紙ともいった。
練帛も紙といい、蔡倫の製造したものをも旧称を用いて紙といい、この二者を別つ為に、後者を蔡侯紙といった。
この外、簡紙と称しているものは、いずれも蔡倫以前の線帛を指したものである。
蔡倫伝にいうところの紙は、初め甚だしくは通行しなかった。貧家で縑帛の使用できないものが、縑帛の代用品として、紙を用いたに過ぎなかったようである。
?帛は魏・晉の際の書籍にも用いたものが多く、南北朝時代に至って紙を使用することがようやく盛んになった。しかし竹帛を用いて文字を書するに、簡は重く、帛は貴く、その上、簡にはまた紊乱し易い欠点がある。故に紙がこれに代って起ったのは自然の勢であるが、唯、竹木はその価が低廉であり、且、改削が容易であったたため、紙の発明以後もその使用は絶えなかった。
紙が大いに行なわれるようになって漸く廃れた。このことは書体の発達変化の上に非常に重要な関係をもつもので、漢に於て書の著しい発達を見たのは、漢末に紙の使用が盛んになった結果に外ならない。即ち先ず刀筆と毛筆とが並行し、波磔ある八分書が完成され、書道は空前の変化と発達を示したのである。
秦のときの書に、大篆・小篆・虫書・摹印・刻符・殳書・署書・隷書の八体あったが、新莽のときは、古文・奇
書・篆書・鳥虫書・繆篆・佐書の六体とした。奇字とは古文にして殊なるもの、篆書には大小篆及び刻符を含み、鳥虫書は秦の虫書、繆篆は秦の摹印、佐書は即ち隷書である。隷書に秦漢の二体があり、秦より漢初に行なわれたものを古隷また秦隷といい、後漢に至って盛行したものを漢隷または八分といい、八分より楷・行・草の三体を生じた。
次は真行草の三体であるがこれもまた大体漢末において完成した。即ち漢は書道史上、尤もその重要なる時代を占めるもので、ここに全くすべての書体は確定し、後世は殆んどこれ以外に出づるを得なかった。
秦の篆書を簡捷にしたものを秦隷または古隷といい、これに波礫を生じたものを漢隷または八分と称し、章草はまた八分を簡捷にしたものであり、章草から更に今の草書が生じた。
然らば則ち八分は章草の前にあったように思われるが、実はその前後を分ち難く、殆んど時を同じくして行なわれたものと見て差し支えあるまい。
章草の起源については、古来諸家の説が必らずしも一致しない。
この書体を章草と呼ぶに至った理由については、書名と字体と混同し、古来諸家の説が一定せず、大要
三説に分れる。第一は章帝によってその名を得たと為す説。第二は章奏に用いたことによるという説。第三は急就章によってその名を得たとする説である。
章草は八分を草率に書したもので、隷の捷書であるが、いわゆる古隷とも草隷とも異なったものである。古隷は、篆の捷書で、篆を稍方と為し、八分に似て八分の波礫のないものである。
この種の書体の実例は、漢中太守都君開褒斜道、敦煌太守裴岑、雲中太守沙南侯の諸刻等がこれに属する。
これに反し草隷は八分が完成した後、これを捷書きしたものである。
古隷は八分完成以前のものである。草隷は八分以後のものである。章草に至っては、草隷より更に後期に属し、八分を捷書しその点画を省略したもので、今いうところの草書に波磔を具して、一字一字独立し、今の草書のように各字が連続していないものである。急就甎、流沙墜簡の文字等がこれに属し、草隷は篆書より出た古隷と異なり、八分より出たものであるので、古くは隷草ともいったのである。
草書は章草から生まれたもので、一にこれを今草ともいった。章草と今草との差は、前者は八分書にみられるような波磔を存し、八分から生じたという痕跡を明らかに存しているが、後者はその波磔を去り、渾然として別に一種の書体を成せるものである。
章草も、今草も、その相違する点は、単に書法の変化というべき程度で、章草から自然にその波磔が取除かれたのが今草であるに過ぎない。
後漢の時代に、章草から漸次今草へと変化して行ったことは事実であろう。世には草書は真書をくずして捷書きしたもののように考えている人もあるが、それは間違いで、草書は章草より変化したものであり、また章草は八分の捷書である。真書もまた八分からその鋒芒をおさめたもので、八分からいえば、真書はその子であり、草書はその孫であるが、時期からいえば、真書は寧ろ草書に遅れて完成したらしい。行書は真書の捷で、草書と真書との中間にあるものである。真書に近いものを真行、草書に近いものを草行ともいう。
この外、飛白書の一体がある。帚筆を用いて軽く払過し、その体白きが若く、勢飛ぶが若きためその名を得たという。後世多く宮殿の題署等に施したもので、初めは八分を以って書したが、小篆にも、真書にも、草書にも、この体をもって書かれたのがある。つまりこれは用筆法の相違で、書体の一種と見るべきものではあるまい。
大体その完成は漢末においてなされ、真書は八分に、今草は章草にかわって、次の時代に於ける盛行を約束されたものと称して差し支えあるまい。