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伝法守法親王


見ぬ世の友
見ぬ世の友 168 伝法守法親王筆 菩提院切 紙本墨書 15.9×12.8 南北朝
仏教における法義・行業・高僧伝等々を、和語をもって讃歌にしたものを和讃という。これは、短い文面ゆえ内容を詳らかにしえないが、そうした何かの和讃を書写した冊子本の断簡である。京都高雄の西明寺菩提院に伝来したためであろうか、菩提院切といわれるが、そのため一般には"横尾切"と呼ばれるものである。即ち、「増補古筆名葉集」仁和寺宮法守法親王の条には、"槇尾切、六半、上下金卦、上下ニ金銀砂子切箔アリ、カナ交リ、フシ付アリ"と記されている。もとは桝形の冊子本。雁皮質の斐紙に、天地に金泥で横罫を引き、その間に一行8〜9字、仮名主体の語がつづられている。字形は豊円でよく整い、線は流麗で穏やかな書きぶりである。行間には濃墨で和讃の譜が書きこまれ、また朱筆も加えられている。筆者は後伏見天皇の皇子・法守法親王(1308−1391)と伝えられるが、実証できる手がかりはない。なお、「古筆名葉集」にも記されるごとく、同じ切の中には、上下欄に金銀の切箔・砂子を撒いたものも伝わっている。



藻塩草
藻塩草 161(裏44) 〔和讃断簡〕(槙尾切) 伝仁和寺法守筆 金銀箔散斐紙墨書 15.1×12.9 南北朝時代
『増補古筆名葉集」の仁和寺法守法親王(1308−1391)の条に「槙尾切、同(声明)、上下金罫、上下二金銀砂子切箔アリ、カナ交リフシ付アリ」とある。文中に「密印」の語が見えるところから、密教系の和讃の断簡と思われる。「槙尾切」という呼称は、京都の高雄西明寺菩提院あたりに所蔵されていたためであろうか。法守筆との伝称についても確証がない。もとは小六半の綴葉装、雁皮筆の料紙の上下に金界あり、その界高12.4p。上、下欄には金銀の切箔、砂子、野毛が撒いてある。それに仮名1行8字の行間には、和讃の譜が書込んである。手鑑『見ぬ世の友」や『翰墨城』には、同じ切が、「菩提院切」などの名で貼られているが、これらの切の天地には金銀砂子が撒いてない。この『藻塩草』所収の「槙尾切」は、その天地の金箔の色などからみて、あるいは後に金箔を撒いたのかもしれない。


伝堯仁法親王


見ぬ世の友
見ぬ世の友 170 伝堯仁法親王筆 大仏切 紙本墨書 15.4×15.6 南北朝
これは「伊勢物語」を書いたものであるが、「古筆名葉集」などにも記載のない珍しい断簡である。もとは桝形の冊子本で、料紙は白地の斐紙。一面13行書き。料紙いちめんにギッシリとしかも小さく書かれているが、筆は軽快に走り、よく暢達している。筆者は後光厳院の皇子 堯仁法親王(1363−1430)といわれている。堯仁は妙法院に入室、門跡となられ、天台座主・四天王寺別当となられた。妙法院は京都・大仏法楽寺の別院であったので、大仏切と名付けられたものであろう。


藻塩草
藻塩草 162(裏45) 〔仏書断簡〕(喜多切) 伝妙法院尭仁筆 金銀箔散斐紙墨書 15.4×12.6 南北朝時代
『増補古筆名葉集』の妙法院土堯仁法親王(1364−1430)の条に「六半、砂子帋、金罫カナ法文」とあるものに適合しよう。何かの仮名法語の断簡か。なお明らかにし難い。もとは綴葉装、雁皮質の料紙には金泥の界罫があり、その界高11.6p、界幅1.6p。上下には、金銀砂子、切箔がびっしり撒いてある。筆蹟特徴は、前述の伝仁和寺法守法親王筆「槙尾切」と非常によく似ている.、その書風等より、この「喜多切」は、南北朝時代のものと考えられる。手鑑『見ぬ世の友』所収の「大仏切」とは同筆と認められる。


伝慈鎮(慈円)


見ぬ世の友
見ぬ世の友 171 伝慈鎮(慈円)筆 丸(円)山切 紙本墨書 18.2×15.3 鎌倉
「拾遺和歌集」巻第二〇・哀傷部の断簡。もとは桝形の冊子本。雁皮質の料紙に、一面10行書き、和歌一首は2行書き。本文中随所に校合したあとがあり、朱筆が加えられている。字形は小粒で円く、筆も暢達しているが、早書きのためか、いささか味わいに乏しい。筆者を慈円(1155−1225)と伝えているが、慈円自筆の詠草・書状などと比べてみても、なお断定はし難い。しかし、鎌倉時代に書写されたものではあろう。「増補古筆名葉集」慈鎮和尚の条には、"円山切、六半、新古今、哥二行書"という記載がある。丸山切は「新古今集」の断簡であるのだが、これは「拾遺集」を書写したものである。丸山切新古今集には朱筆の校合がなされているため、あるいは、この断簡の方が誤り伝えられたのかもしれない。


伝尊円法親王


見ぬ世の友

見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 174 伝尊円法親王筆 巻物切 打曇紙本墨書 30.2×44.2 鎌倉
藍・紫の雲形を施したいわゆる雲紙に、和歌一首が上下の句に分けられ、それぞれ雁行様に散らし書きされている。この『なにはつに……云々』の歌は、百済から帰化した王仁が仁徳天皇の即位を祝って詠み奉ったといわれるもので、「古今和歌集」序に『……歌の父母のやうにてぞ、手習ふ人のはじめにもしける』と記されるもので、手習いの最初に学ぶものとして、昔から登用された和歌なのである。この書は、そうした意味あいを背景に、大きく整斉で、しかも謹厳に書かれたものであり、調度手本として書かれたものに相違なかろう。筆者と伝えられる尊円法親王(1298−1356)は、伏見天皇の第六皇子で、第一七世青蓮院門跡となられ、書を世尊寺行房・行尹に学び、のちに青蓮院流(尊円流)と謳われるほどの書境をひらかれた能書家である。この立派な書は、所伝の通り尊円の筆跡と認めてもよいのではなかろうか。もとは巻子本であったが、古筆切としての呼称はなさそうである。

見ぬ世の友 175 伝尊円法親王筆 巻物切 打曇紙本墨書 30.2×15.7 鎌倉
尊円法親王の筆跡と伝えられる断簡で、その内容はどうも手紙文の一部のようである。文字は端正で、筆の運び方もまったく書法的で、忽卒の間に書かれた普通の手紙とはまるで趣を異にしている。したがってこの切は、書簡文をそのまま手習いの手本とした往来物の断簡と考えてよいであろう。174の巻物切と比べると、紙質・雲紙の調子や料紙の寸法がまったく一致しており、漢字仮名の相違こそあれ、書風も相通ずるものをもっている。おそらくこの二つは、もと同じ一巻に収められたお手本であったのであろう。この漢字の書風はまさに尊円流そのものであり、尊円の真筆と認めてよいものではなかろうか。

藻塩草 164(裏47) 小野道風請状写断簡(巻物切) 伝青蓮院尊円筆 打曇斐紙墨書 30.3×19.0 南北朝時代
小野道風の奏文などを引用したいわゆる往来物の断簡。『増補古筆名葉集』の青蓮院尊円法親王の条に「同(巻物切)、雲帋、往来物、詩哥寸法不定」とあるものに相当しようか。この文は『本朝文粋』六に「為小野道風申山城守近江権介状菅三品」と題し所収されている。書は、尊円法親王にしてはいくぶん弱い感じもするが、道風流に書いたものであろうし、また自筆の中には「拾霞抄」のようにおだやかな書もあり、断定し難い。もとは巻子装、楮質の天は藍、地は紫の打曇料紙に1行15字程度の行書。料紙やその書風より南北朝時代のものと認められる。


藻塩草
藻塩草 163(裏46) 万葉集巻第十四断簡(金沢切) 伝青蓮院尊円筆 斐紙墨書 33.3×5.9 南北朝時代
万葉集巻第十四東歌の断簡。『古筆名葉集』の青蓮院尊円法親王(1298−1356)の条に「金沢文庫切、大四半、万葉、中字行書、四方金界アリ」とある。もとは巻子装、雁皮質の料紙の上下には真鍮泥の界線がある。その界高27.0p、1行17字の行書に、読みの片仮名がついている。呼称の由来は、もと金沢文庫にあったためである。筆者は尊円法親王と伝えるが、自筆の種々の書巻等に比し同筆とは認められない。その書風、料紙より南北朝時代のものと考えられる。手鑑『白鶴帖』所収の「金沢文庫切」には金沢文庫の朱印がある。


藻塩草
藻塩草 165(裏48) 古今和歌集巻第十三断簡(能瀬切) 伝青蓮院尊円筆 斐紙墨書 24.9×15.8 南北朝時代
古今和歌集巻第十三恋歌三の断簡。『増補古筆名葉集』の青蓮院尊円法親王の条に「能瀬切」の名は見当らないし、この切に適合するものもない。付属の目録には「能瀬切」とあるが、一般には「能勢切」の名で知られる。その呼称の由来は明らかでない。尊円法親王筆と伝えるが、尊円法親王の自筆のものに比し、同筆とは認められない。もとは四半の冊子装、雁皮質の料紙に一面6行書、和歌一首2行書で、書風より鎌倉時代末期から南北朝時代のものと考えられる。


伝尊道法親王


見ぬ世の友

見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 176 伝尊道法親王筆 巻物切 銀泥下絵打曇紙本墨書 29.1×19.8 南北朝
「古今和歌集」巻第二・春歌下に所収の惟喬のみこの歌一首の断簡。もとは巻子本。雲紙に銀泥で鳥・草の下絵が描かれている。書は整斉にして無理がなく、入念に書かれているが、同時に枯れ枯れとした情味をただよわせている。その書風は、尊円流といえよう。筆者は後伏見天皇の皇子 尊道法親王と伝えられるが、断定はできまい。これも一種の調度品として書かれたものであろうか。

見ぬ世の友 177 伝尊道法親王筆 巻物切 打曇紙本墨書 31.9×12.5 南北朝,
紫と藍の雲紙に、一行6字という大字で書かれた書状の断簡で、真の手紙というよりは、手本として書かれたものとみるべきであろう。「増補古筆名葉集」青蓮院宮尊道親王の条に、"巻物切、往来物"と記されるものに相当しよう。もとは巻子本で、たっぷりと大きな文字が整然とならんでいる。筆者を尊道親王というが、なお後考を要しよう。

藻塩草 166(裏49) 書状断簡(巻物切) 伝(青蓮院)尊道筆 打曇楮紙墨書 31.8×13.3 南北朝時代
『増補古筆名葉集』の青蓮院尊道法親王(1332−1403)の条に「巻物切、往来物」とあるのに適合しよう。往来物の断簡であろうが、内容からいって書状の手本といったところかもしれない。もとは巻子本、楮質の天は紫、地は藍の雲紙に1行6字ないし8字程度、書風より鎌倉時代末期から南北朝時代のものと考えられる。尊道法親王筆と伝えるがその自筆書状「御物青蓮院宮代々消息」などに比し、なお断定し難い。南北朝時代、尊円書流が非常に隆昌になったために、これを習う者が多く、またすぐれた者も出て、法親王の手本を習得したために、いずれが自筆か判断し難いものが多い。これも尊道法親王の自筆書状「御物青蓮院宮代々消息」などに比し、疑わしいものの一つといえよう。


伝祐助親王


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 178 伝祐助親王筆 亀山切 紙本墨書 26.5×5.7 鎌倉
わずか全2行8字の断簡ゆえ、内容が何か判らないが、仏書に関係ある字句を書いた断簡。黄麻紙に淡墨で界を引き、肉の厚い柔らかい楷書体で書かれている。「古筆名葉集」などにも記載されない切。断簡には亀山切という名が書かれているが、その拠るところを知らない。伝紀貫之(あるいは藤原行成)筆と伝える古今集の写本に、同名の亀山切なる断簡があるが、これらはまったく別種のものである。筆者を祐助親王(1302−1359)と伝えるが、なお後考を要する。

藻塩草 167(裏50) 〔仏書断簡〕(亀山切) 伝(青蓮院)祐助筆 黄麻紙墨書 27.3×8.8 鎌倉時代
『仏名礼戯』か。『両部曼茶羅金剛名号』などとよく似た配列であるが、何の断簡かなお後考を要する。『増補古筆名葉集』には収められていない。もとは巻子または折帖装、黄麻質の料紙に墨罫あり、その界高22.5p、界幅2.9p。祐助(1302−1359)筆「亀山切」の呼称の由来は不明。料紙、書風などよりみて、あるいは祐助の時代より、若干さかのぼるものであろう。伝貫之筆「亀山切」とは別物なので注意を要する。


伝道円法親王


見ぬ世の友
見ぬ世の友 179 伝道円法親王筆 上田切 金銀箔野毛砂子散紙本墨書 31.4×8.3 南北朝
何かの仏書の断簡と思われるが、古筆家が著わした「古筆名葉集」に記載がなく、また上田切という名称についても、その由来を知りえない。もとは巻子本だったのであろう。淡墨で細く界を引き、上下欄に金銀の切箔・砂子・野毛を少しく置いている。1行15字。一点一画に力の入った、比較的古様な書きぶりである。筆者は、後光厳院の皇子 道円法親王(1364−1385)と伝えているが、断定はできまい。書写年代は、もう少しさかのぼるように思われる。


藻塩草
藻塩草 168(裏51) 〔縁起断簡〕(祇園切) 伝(青蓮院)道円筆 金銀箔散楮紙墨書 30.7×13.2 南北朝時代
『古筆名葉集」、また『増補古筆名葉集」にも記載するところがない。「紙園切」という名称や、この断簡の中にいっている文句などから推察して、京都祇園八坂の法観寺縁起の断簡ではないかと思われる。しかし法観寺縁起は現存せず、なお後考を要する。もとは巻子装、楮質の料紙の天地には、金銀の切箔、砂子、野毛が撒いてある。上下に横に銀罫あり、その界高26.2p。道円(1364−1385)筆と伝えるが、自筆か否か明らかでない。しかし書風より鎌倉時代末期から南北朝時代のものと考えられる。


伝伝教大師(最澄)


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 181 伝伝教大師(最澄)筆 焼切 紙本墨書 22.1×7.9 平安
「大般若波羅蜜多経」の断簡で、火災にあったとみえて、料紙の上下に焼けたあとがあるので焼切と呼ばれている。「古筆名葉集」伝教大師の条に"焼切、香帋墨字経"とあり、「増補古筆名葉集」には"焼切、香帋墨字経、上下焼コゲタル故ニ名ツク、コノ類切多シ"と記載されている。もとは巻子本で、黄麻紙に淡墨で界を引いている。1行16字。写経はふつう1行17字だが、各行の一字目を焼失したからである。書風は一点一画に力のこもった中国風の写経であるが、天平経のようなひきしまった字形ではない。また、和様のスタイルにも到っていない。おそらく、平安前期頃の写経であろう。筆者は最澄(767−822)と云われ、年代的には合致すると思われるが、最澄自筆の「請来目録」「天台法華宗年分縁起」などに比し、同筆とは認められない。元亀2年(1571)に、織田信長は比叡山を焼き討ちしているが、こうした歴史的事実を背景に、焼け残りの写経は比叡山伝来のものと考えられ、最澄を筆者に宛てたものであろう。

藻塩草 169(裏52) 大般若波羅蜜多経巻第五十二断簡(焼切) 伝伝教大師(最澄)筆 黄麻紙墨書 22.0×8.0 平安時代前期
玄奨訳大般若波羅蜜多経巻第五十二初分弁大乗品第十五之二の断簡。『古筆名葉集』の伝教大師最澄(767−823)の条に「焼切、香帋、墨字経」とあり、また『増補古筆名葉集』には「焼切、香帋、墨字経、上下焼コゲタル故ニ名ツク、コノ類切多シ」とある。もとは巻子本、黄麻紙に墨罫あり、その界高20.5p、界幅2.0p、1行16字。伝教大師筆と伝えるが、伝教大師自筆の天台法華・宗年分縁起などと比し、同筆とは認められない。その書風や料紙よりみて、平安時代前期にさかのぼりうるもので、当時の本格的な写経生の手になるものであろう。伝教大師筆との伝称は、この経が比叡山など天台寺院にあったため生じたのではないかと考えられる。「焼切」の呼称の由来は、火災にあったとみえて天地に焼けたあとがあるのでこの名がある。伝教大師筆と伝えるのはこの切のみである。

翰墨城 231 伝伝教大師 焼経切
黄麻紙に漢墨の界を引き、写経した「大般若波羅蜜多経」の断簡。料紙の上下に焼け焦げた跡があるので、世に「焼切」と呼ばれるものである。もとは巻子本、1行17字詰め。『増補古筆名葉集』伝教大師の条に「焼切香帋墨字経、上下焼コゲタル故二名ヅケル、コノ類切多シ」と記録され、筆者は古くから最澄(767−822)といわれているが、最澄自筆の「請来目録」「天台法華宗年分縁起」などと比べれば、同筆でないことは一目瞭然である。「天平経」のような荘厳さはないにしても、一点一画に力のこもったこの書きぶりは、奈良末〜平安初期にかけての写経と容易に推察できよう。たとえ書風は異なってはいても料紙の天地に焼け焦げのあるものはみな、比叡山伝来の写経と考えられ、延暦寺の開祖伝教大師最澄を筆者に当てたものと思われる。


伝弘法大師(空海)


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 182 伝弘法大師(空海)筆 南院切 紙本墨書 27.7×6.7 平安(唐)
「新撰類林抄」の断簡で、「増補古筆名葉集」弘法大師の条に"南院切、草書、中字・詩"と記されるものに相当する。新撰類林抄がいかなる書物であるかは未詳であるが、現存する零本の「新撰類林抄巻第四残巻」をみると、王維・李白・銭起らの唐代詩人の詩を、歳時・分題によって細かく類別聚集した詩篇であることがうかがわれる。もと巻子本であったろう。楮紙に淡墨で界をひき、1行11〜12字、みな草書で書かれている。文字は右肩をいからした縦長な風で、点画は力強く、のびのびとして弾力性に富む書きぶりである。書写された年代は不明であるが、昔から空海(774−835)の筆跡と伝えられている。それは、空海筆金剛般若経開題の草書に雰囲気がよく似ていること、この巻物がもと高野山の南院に伝来したことにより、この筆者を空海に宛てたものと思われ、今日では、この断簡は非常に精密な双鉤填墨本であるとされている。双鉤填墨の法は、中国の晴唐期に発達した一種の複製法であって、わが国には例がない。したがって、この書は唐人の手になったものと考える方が妥当のようである。南院切とは、高野山の南院に伝来したことによる命名であろう。

藻塩草 170(裏53) 新撰類林抄断簡(南院切) 伝弘法大師(空海)筆 楮紙墨書 27.7×11.9 平安時代前期
新撰類林抄の断簡。『増補古筆名葉集』の弘法大師(774−835)の条に「南院切、草書、中字詩」とある。もとは巻子装、楮質の料紙に墨罫あり、その界高22.4p、界幅2.4p、1行12字。『新撰類林抄』は、唐土の人の詩を分類した本のように思われるが、断簡しか伝わらないので、なお明らかにし難い。日本、中国の古来の書籍目録にもその名は見えず、撰者などは不明である。しかし巻第四の残巻の巻頭題によってこの書物の名がわかる。この断簡中には、中国の詩集に見当らない作者や詩が数々あり貴重である。空海などによって請来されたため空海筆と伝称されてきたのかもしれない。双鈎填墨ではなく、ゆっくりとした運筆の写本とみられる。『新撰類林抄」のまとまったものとしては、最近国宝に指定された巻第四残巻、428行の零巻が知られている。「南院切」という呼称の由来は、空海と関係のある東大寺の南院に伝わったためかもしれないが、なお明らかでない。

翰墨城 234 伝弘法大師 南院切
『新撰類林抄』の断簡。楮質の素紙に薄墨界を引いた枠内に書写する。今日、巻第四の残巻228行分がまとまって伝わるほかは、断簡として「南院切」の名に呼ばれるが、その数は少ない。一字一字を切り離して丁重に書写しているが、同じ草書体でも省画の文字が含まれていて読みにくい一面がある。その書風は、唐太宗の「屏風書」などによく比較され、確かに類似点は見いだされるが、二、三文字の連続などが処々に散見され、流動的であるのに対し、この「南院切」は文字が孤立していて筆法にきわめて忠実な点に特徴がある。むしろ、弘法大師の「金剛般若経開題」に、共通性がより多く認められ、同時代の筆と推定される。しかし、同筆とはいえない。いずれにしても唐代の書風を伝える筆致を示しており、弘法大師自筆ではないが、その系統に類別されるべきものである。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 183 伝弘法大師(空海)筆 鼠跡心経(コロコロ心経) 紙本墨書 23.7×43.2 鎌倉
ザラッとした一枚の楮紙に、「般若心経」全文を書写したもの。罫もひかず、1行20字ほどに配字した細字だが、なかなかに手慣れた技巧を駆使している。文字は草書体だが、小さく円く書かれており、まるで鼠の足跡のように見えるため鼠跡心経(略して鼠心経)といい、また文字がコロコロした趣なので、コロコロ心経ともいっている。この種の写経の断簡が、世に多く散在している。あるいは、誰かが、日課のように般若心経を書写したものかもしれない。この末尾の少し離れたところに、"沙門空海"という署名がある。このため、古くから空海の筆跡として喧伝されてきたのだが、空海自筆の諸本と比べれば、別筆であることは歴然としている。おそらく、鎌倉時代に書写されたものであろう。


翰墨城
翰墨城 232 伝弘法大師 絵因果経切
四巻の「過去現在因果経」を上下二巻ずつに分けた、もとは八巻の巻子本の断簡。料紙は黄麻紙で、下半分に経文を書き、その内容を上半に絵で表現している。絵は素朴な描法で色彩も簡潔であり、非常に力強く、明快で人間味にあふれている。書風は、いわゆる写経体。筆力勤健、字形も端正である。天平時代の書写。当時、八巻一セットの「絵因果経」がいくつか制作されたらしい。絵と経文を並列したものに唐経の「随求陀羅尼神呪経」(上段に経文)があり、この様式は中国渡来のものと考えられる。この断簡は弘法大師空海(774−835)筆と伝えるが、「絵因果経」が高野山に伝来したため、後世、大師信仰の波に乗り流布した誤伝である。


翰墨城
翰墨城 233 伝弘法大師 草字切
弘法大師の筆と伝称されている「智恵訪文」と「鼠跡心経」に酷似する。仏書を書いたものであろう。速い筆をくるくると用いるこの書風は、きわめて特異なもの。平安時代も比較的早いころの書写であろう。


翰墨城
翰墨城 235 伝弘法大師 草字切
空海の真跡には、草書の遺品も多くみることができる。その中で、この断簡のように細字で書かれたものは、『三十帖策子』の第二十六帖、第二十七帖というものぐらいである。比較的条件の近い二つを比べると、全体の感じに共通点がある。これは、両者の手習いの原本が共通であることからきたものであろう。しかし、筆跡は同筆とはいえない。「判比量論」の断簡といわれる「東寺切」が最もよく似ている。これらに共通するのは、草書でありながら、一字一字が独立しており、連綿の少ないこと。孫過庭の草書など、中国の草書をそのまま伝える書風であることなどである。いろいろな書風を学び、それぞれをよくこなした空海を、自筆の遺品と書風上共通のこれらの筆跡の筆者としたのであろう。内容は詳しくはわからない。


翰墨城
翰墨城 236 伝弘法大師 詩書切
巻子本の断簡。「益州城西張起亭観妓」と題する王無功(字は勣)の詩。早くから空海の筆跡と伝えられたものらしく、『新撰古筆名葉集』にも、「弘法大師……巻物切 中字行書詩 一行九字許朱ニテ別人ノ訳字アリ」と記される。「風信帖」をはじめ、いくつかの空海の真跡と比較すれば明らかに異筆。むしろ、王義之以来の正統な書法を受け継いだ、唐人の手になったものとみるのが妥当と思われる。おそらく、平安時代、遣唐使などによって舶載されたものであろう。行草体に書かれた本文の右側にある、楷書の朱書は別人の筆跡。わずか一葉ながら、書道史上貴重な遺品である。八世紀ごろの書写であろうか。


翰墨城 237 伝弘法大師 大日経開題切
現在、醍醐寺三宝院に所蔵する一巻の外題(後人の手)に、「大日経開題 高祖御手跡」とあるところから、「大日経開題」の名で親しまれ、弘法大師空海の真跡と伝えられて著名である。この断簡は早くに切断され、別途に伝来した一葉で、珍重すべきもの。真言密教の根本経典『大日経疏』を披読した空海が、心覚えに書き付けた手控えのノートと思われる。いわゆる著者の草稿本ではない。行間や紙背にまで書き足された文字が、彼のたゆまぬ研鎖のあとを物語っている。通行の数種の『大日経開題』とは本文を異にし、『弘法大師全集』では、仮に「大日経疏要文記」と題して、一連の『大日経開題』とは区別している。「三十帖冊子」などと同様、自分自身のためのノートであるという性格上、まったく気取りというものが感じられない。しかし、禿筆を馳せたその小さな文字にも、中国書法を根底とした空海の確かな筆法をみることができる。


翰墨城
翰墨城 238 伝弘法大師 仏書切
この断簡は、1行17字ではなく、30字近くが書写されており、いわゆる経文ではない。おそらく、それらに関した仏書であろう。文字のまわりには、平安時代以後にみられる訓点の一種である朱点や平安初期の遺品によくみられる白点が残されており、かなり読まれ、研究されていたものであることがわかる。弘法大師空海の真跡と比べ、同筆ではないが、平安初期の筆跡と思われる。


伝慈覚大師(円仁)


見ぬ世の友
見ぬ世の友 184 伝慈覚大師(円仁)筆 無動寺切 紙本墨書 26.5×12.4 平安
「注維摩詰経」の断簡で、もと比叡山の無動寺に伝来したというので、無動寺切と名付けられたらしい。もとは巻子本。白地の斐紙に淡墨で界を引き、1行10〜11字、注は小字で双行に、1行15字に書かれている。書は逡勤な点画、整斉な字形を示しており、平安時代も早い頃の書写になると思われる。筆者は最澄の弟子 円仁(794−864)といわれるが、何ら確証はない。「増補古筆名葉集」慈覚大師の条に"経切、香帋墨字、ルイキレ多シ"という記載がある。類切の中には、同じ注維摩詰経を書いた断簡で、やはり比叡山の西塔に伝来したというので、「西塔切」と云われるものがある。書風はよく似ており、料紙なども同じように思えるが、西塔切の方は、1行12字、注は小さく双行に、1行17〜18字に書かれている。


藻塩草
藻塩草 171(裏54) 注維摩詰経巻第九断簡(西塔切) 伝慈覚大師(円仁)筆 斐紙墨書 27.7×8.0 鎌倉時代
注維摩詰経巻第九菩薩行品第十一の断簡。『古筆名葉集』の慈覚大師(七九四−八六四)の条には「香帋、墨字経」とのみあり、また『増補古筆名葉集』には「経切、香帋、墨字、ルイキレ多シ」とある。もと巻子本、楮まじりの雁皮質の料紙に墨罫あり、界高22.8p、界幅2.6p、1行大字12字詰程度、注は一界線2行に割書きされている。筆者を慈覚大師(円仁)と伝えるが、円仁の自筆書状に比し、同筆とは認められない。その書風より鎌倉時代の書写と考えられる。『藻塩草』所収の「西塔切」と同じ断簡が、手鑑『見ぬ世の友』では「無動寺切」の名で所収されている。


翰墨城
翰墨城 239 伝慈覚大師 写経切
円仁 慈覚大師(794−864)は、下野(栃木県)の出身で、延暦寺第三世座主、天台宗山門派の祖である。この断簡の書風は、いわゆる写経体であるが、奈良時代の統一のとれたものと比べ、やや自由であり、時代が下って平安時代に入ってからのものと思われる。『増補古筆名葉集』には、慈覚大師の項に、「経切 香帋墨字ルイキレ多シ」とある。この断簡もこの経切の一部であろうが、円仁の筆跡という確証はない。


伝道昌律師


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 185 伝道昌律師筆 嵯峨切 紙本墨書 26.3×11.5 平安
「四分律捌繁補閾行事鋤」巻上・説戒正義篇第一〇(道宣撰)にあたる断簡。「増補古筆名葉集」道昌律師(法輪寺弘法大師弟子)の条に、"四半、聖教、細字、朱点アリ"という記載があるが、これに相当しよう。もとは巻子本。楮質の料紙に1行24字ほど、細字の行書体で書かれている。行間は狭く、文中には朱点が加えられている。書は正統の書風を示すものではないが、覇気ある筆致を感得することができよう。筆者は道昌(798−875)といわれるが、なお後考を要する。嵯峨切という名称は、道昌が虚空蔵で名高い嵯峨の法輪寺(初め葛井寺という)の開山であったため、名付けられたものであろう。

藻塩草 172(裏55) 四分律行事鈔資持記巻下断簡(嵯峨切) 伝道昌筆 楮紙墨書 25.8×7.8 平安時代後期
宋の釈元照撰四分律行事紗資持記巻下三の断簡。『増補古筆名葉集』の道昌律師(法輪寺弘法大師弟子 798−875)の条に「四半、聖教、細字、朱点アリ」とあるものに適合しよう。もとは巻子装、楮質の料紙に、1行23〜25字程度、細字の行書で書写されている。所々に朱点がある。道昌律師は貞観元年(859)嵯峨の葛井寺を修し、規模を改め福智山法輪寺を経営した僧であるので、この切にも「嵯峨切」の名称がついたのであろう。道昌の自筆かどうかは、なお明らかでない。手鑑『見ぬ世の友』には、同じ切で「行事砂上、説戒上儀篇第十」の断簡が収められている。


伝智証大師(円珍)


見ぬ世の友

翰墨城
見ぬ世の友 186 伝智証大師(円珍)筆 三井寺切 紙本墨書 27.2×15.5 平安
詳しい内容は判らぬが、仏書を書いた断簡。もとは巻子本。文字は天地いっぱいに1行27〜30字、楮質の料紙に細字の草書体で書かれている。そして、整斉な楷書で書かれた大小の裏文字が透けて見えており、紙背にはどうやら注釈経が書かれていたらしい。この書はもと三井寺(滋賀・園城寺)に伝来したので、三井寺切と呼ばれている。そして筆者には、同寺を中興した円珍(814−891)を宛てているが、円珍自筆の「円珍文書目録」などに比べると、同筆とは認められない。書写年代は、平安時代の前半であろう。この切は「古筆名葉集」智証大師の条に"薄香色墨字経、草書細字"とあり、「増補古筆名葉集」には"巻物切、艸書、細字仏書"とあるものに適合している。

翰墨城 242 伝智証大師 三井寺切
写経の紙背に書かれた仏書の断簡。透き通してみえる写経の文字は、右上がりの勤健な筆致で謹厳に書かれた典型的な写経体であり、奈良時代の書写になると思われる。もとは巻子本で、断簡は、古くは三井寺に伝えられたことにちなみ、「三井寺切」と呼ばれる。1行に30字近くを天地に余白を残さず、料紙いっぱいに書いている。細字でありながら、筆の弾力を巧みに使った、力強い単体の草書は、王義之の「十七帖」を思わせる。筆者は智証大師円珍と極められている。円珍には自筆の書状や「開元寺求得経疏目録」が現存し、その書風は、折れ曲がったような線で、ぐいぐいと書き進めていく、独特の癖の強いもので、この断簡を同筆とみることはできない。天武6年(677)ころ創建され、のち衰えていた三井寺を、天安2年(858)に、円珍が延暦寺別院として再興したことから、伝称筆者となったものか。


藻塩草
藻塩草 173(裏56) 〔仏書断簡〕(竹生島切) 伝智証大師(円珍)筆 斐紙墨書 28.0×5.8 平安時代後期
『古筆名葉集』の智証大師(814−892)の条に、「薄香色墨字経、草書細字」とのみあり、また『増補古筆名葉集』には「同(巻物切)、草書細字、仏書」とあるものに適合しよう。玄突訳成唯識論巻第二とほぼ同じであるが、字句が一致せず、なお後考を要する。もとは巻子装、楮まじりの雁皮質の料紙に墨罫あり、その界高25.0p、界幅1.5p、1行26字程度。その書風等より平安時代後期のものと考えられる。紙背にも仏書らしきものが書かれている。文中、ところどころ朱の点がしるされている。智証大師筆と伝えるが自筆とは認め難い。「竹生島切」の名称は宝巌寺に伝わった写経の意味であろうか。また同手の切が、「三井寺切」と呼ばれて手鑑『見ぬ世の友』に収められている。これも、園城寺(三井寺)所伝の意味でなかろうか。


翰墨城
翰墨城 240 伝智証大師 仏書切
薄茶色の料紙に草書で書写されたこの断簡は、『古筆名葉集』の智証大師の項の「薄香色墨字経 草書細字」に該当する。出典は不明だが、仏教に関わる典籍を写し取ったものと思われる。伝称筆者たる智証大師 円珍(814−891)は、平安時代初期の天台宗の僧で、「中務位記」「治部省牒」などを残している。それらとの書風比較からこの断簡は円珍のものとは考えられない。書写年代は円珍の時代をあまり下らないころのもので、一見稚拙ではあるが、枯淡な味わいをもつ書風を展開している。


翰墨城
翰墨城 241 伝智証大師 外典切
何を写しとったものか不明。仏教の経典を内典というのに対し、いちおう外典としておく。また、文中に朱で送り仮名、並びに乎古止点がみえるが、これは後世平安末期ころの書き入れである。1字1字墨量豊かに、リズム感のある柔らかい運筆など、平安時代初期の写経の書風と一致し、この断簡の書写年代もおよそそのころのものと推定できる。伝称筆者を円珍と伝えるが、円珍の筆跡とは認められない。乎古止点など国語学研究の資料ともなる貴重な断簡である。


伝理源大師(聖宝)


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 187 伝理源大師(聖宝)筆 三宝院切 紙本墨書 12.2×11.4 平安
「魚山声明」の断簡。魚山とは中国山東省にある山。かつて魏の曹植が、この山で空中から梵天の声を聞き、その音節をうつして梵歌をなしたといわれている。わが国には入唐の円仁がこの梵歌を伝えたのだが、ために天台宗の梵唄声明を"魚山流"と称している。もとは桝形の冊子本であったろう。料紙は斐紙。一面4行書き、1行は7字。点画の逡勤な力強い楷書体で書かれ、また各行の左側には墨で音符が記入されている。三宝院切という名は、この冊子がもと醍醐の三宝院に伝来したため名付けられたらしいが、そのため、醍醐寺の開山である聖宝(832−909)を筆者に宛てたものであろう。しかし、聖宝自筆の書状(三宝院蔵)などに比べると、真筆とは断定できない。

藻塩草 174(裏57) 魚山声明断簡(三宝院切) 伝醍醐聖宝(理源大師)筆 斐紙墨書 12.4×11.6 平安時代後期
天台宗の魚山声明のうち胎蔵界の一節で、漢字の左側に音符を記入してある。『増補古筆名葉集』の理源大師(醍醐聖宝僧正 832−909)の条に「自記切、帋黄鳥ノ子、中字墨字、梵字入タルモアリ」とあるものに適合しよう。もとは小六半の冊子装、雁皮質の料紙に一面4行書、1行7〜10字程度で楷書してある。この切の名称や、醍醐聖宝筆の伝称から、これは、醍醐三宝院から出たものであろう。しかし、聖宝の自筆書状に比し同筆とは認め難い。しかしその書風等から、書写年代は平安時代後期よりも鎌倉時代かとみられる。


翰墨城
翰墨城 243 伝理源大師 仏書切
『古筆名葉集』に、「自記切 帋黄鳥ノ子、中字墨字梵字入タルモアリ」と記されるものに該当。金の界を引き、梵字とその訳語を書いた仏典で、あるいは梵字典の役割りをもったものであったろうか。筆者と伝えられる理源大師聖宝(832−909)は、貞観ぬ16年(874)に醍醐寺を開き、ここを修行の場として、陽成(868−949)・宇多(867−931)両帝の厚い酵鰹を受けた人である。そのために、醍醐寺に伝わる文書には、聖宝の筆跡と伝えられるものが多い。真筆と確認できるものでは、「理源大師処分状」「理源大師起請文」が現存し、その書風は、すこし荒々しいが、空海(774−835)をしのばせる力強い筆致で、堂々としている。このほかに聖宝の筆跡と伝えられるものでは、声明を書いた冊子本の断簡で、「三宝院切」と呼ばれるものが、手鑑「藻塩草」と「見ぬ世の友」に所収される。空海の詩文集である「遍照発揮錆性霊集」が前田育徳会に、その断簡の「性霊集切」が手鑑「文彩帖に所収され、現在に伝わる。しかし、いずれも真筆と比較して、同筆とは認めがたい。この断簡も、すこし時代の下る平安時代中期の書写と考えられ、聖宝自筆と認めることはできない。


伝元三大師(慈恵大師・良源)


見ぬ世の友
見ぬ世の友 188 伝元三大師(慈恵大師・良源)筆 山上切 紺紙金泥書 25.7×5.0 高麗
「妙法蓮華経」巻第二・信解品第四の後部、四言一句の偶を列記している断簡。もとは巻子本。紺染の楮紙に金泥で、上下の横罫を太く、縦罫を細く引き、金泥で経文を書いている。文字は端正であり、一点一画の筆使いは、まことに筆力が充実している。筆者は元三大師(912−985)といわれているが、この書風は伝藤原鎌足筆多武峯切に書写様式が酷似しており、朝鮮高麗時代の写経と考えられている。「古筆名葉集」元三慈恵大師の条には、横川切という同じ紺紙金字経の記載がある。慈恵大師が比叡山に横川を開いたのでこの名があるが、同じ理由から紺紙金字の類切が山上切ともいわれている。この種の高麗経断簡は、すべて慈恵大師筆横川切、あるいは山上切と名付けられたようである。


藻塩草

翰墨城
藻塩草 175(裏58) 華厳経行願品断簡(横川切) 伝慈恵大師(元三大師)(良源)筆 紺楮紙金字書 31.3×5.3 高麗時代
華厳経行願品の断簡。『古筆名葉集』の元三慈恵大師(良源 912−985)の条に「紺紙金字経」とのみあり、また『増補古筆名葉集』には「横川切、紺帋金字経、上下ニ子持ノ金罫アリ、大小類切多シ」とある。もとは巻子または折帖装、楮質の紺紙に金罫あり、その界高20.2p、界1.7p、それに金泥で、1行17字に楷書してある。伝慈恵大師筆「横川切」の呼称から、この経はもと叡山横川別院にあったと思われる。しかしその料紙、書風より観察して、これは高麗の写経のようである。このような写経が、古筆家によって慈恵大師筆とされてきたために、世に散在する高麗写経の断簡は、すべて慈恵大師筆「横川切」、または「山上切」と呼ばれている。

翰墨城 244 伝慈恵大師 横川切
『古筆名葉集』の元三慈恵大師 良源(912−985)の条に「紺帋金字経」とのみあり、また『増補古筆名葉集』には「横川切 紺昏金字経、上下二子持ノ金卦アリ、大小類切多シ」とある。もとは巻子または折帖装。楮質の紺紙に金罫あり、それに金泥で1行17字に書写してある。伝慈恵大師筆「横川切」の呼称から、この経はもと叡山横川別院にあったと思われる。しかし、その料紙や書風から推してこれは朝鮮高麗時代の写経と認められる。このような写経が古筆家によって慈恵大師とされてきたために、世に散在する高麗写経の断簡は、ほとんど慈恵大師筆「横川切」、または「山上切」と呼ばれている。


伝性空上人


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 189 伝性空上人筆 浅野切 紙本墨書 26.3×9.3 鎌倉
この断簡は、「古筆名葉集」性空上人書写山の条に"仮名文切"とのみあり、さらに「増補古筆名葉集」に"浅野切、経ウラ、カナ交リ文"と記録されるものに適合している。漢字仮名交りの消息切であるが、消息の紙背を利用して版経を摺ったいわゆる"醗摺経"であるために、紙面の汚れとが重なり合ってなかなかに判読しがたい。料紙は楮紙であろうか。淡墨を用いた柔らかい線で、軽快に速く書かれた消息である。本紙の中央に継ぎ目があるが、紙背の版経の文字の大きさ・太さが左右それぞれ異っているところからして、二種の版経を合わせたものである。従って、消息もつづいていない。筆者は性空上人(910−1007)と伝えられるが、仮名の書風・裏面の版経よりみて、書写年代は鎌倉時代のものと推定できよう。なお、浅野切という名は伝来した家名によるものであろうが、詳しいことはわからない。

藻塩草 176(裏59) 書状断簡(浅野切) 伝性空上人筆 楮紙墨書 26.6×12.8 鎌倉時代
妙法蓮華経巻第一序品第一の偶。『古筆名葉集』の性空上人(928−1007)の条に「仮名文切」とのみあり、また『増補古筆名葉集』には「浅野切、経ウラカナ交リ文」とある。何の書状断簡であるか、文字がところどころ薄くなっていて判読し難く、これだけでは意味がわからない。もとは巻子装、楮質の料紙の紙背には、南都版とおぼしき刊本の法華経が見えている。「浅野切」は、筆者を性空上人と伝えるが、なお確認し難い。しかし書風や、紙背の刊経よりみて、性空上人の頃より少し下る鎌倉時代のものではなかろうか。


翰墨城
翰墨城 245 伝性空 消息断簡
『古筆名葉集』の性空上人(928−1007)の条に「仮名文切」とのみあり、また『増補古筆名葉集』には「浅野切経ウラカナ交リ文」とある。これはなんの書状断簡であるか、これだけでは意昧がわからない。筆者も平安中期の僧・歌人であり、播磨国書写山円教寺の開山たる性空と伝えるが、なお確認しがたい。しかし、書風からみて性空のころよりはるかに時代の下る鎌倉時代のものと思われる。


伝恵心僧都(源信)


見ぬ世の友
見ぬ世の友 190 伝恵心僧都(源信)筆 安楽院切 紙本墨書 27.6×10.1 平安
何かの仏書を書いた断簡と思われるが、その出典を明示することができない。もとは巻子本。料紙は楮紙で、1行26〜27字。天地いっぱいに細かな行草体で書かれている。字形は概して扁平で、しんにょうや筆のとめ方などの用筆に独特の癖がある。忽卒の間に書き写されたものであろう。だ筆者は和讃を創始した恵心僧都(942−1017)と伝えられるが、もとより確証はない。安楽院切という名称は、伝来した寺名をとったものであろう。


藻塩草

翰墨城
藻塩草 177(裏60) 〔仏書断簡〕(坂戸切) 伝恵心僧都(源信)筆 楮紙墨書 24.6×6.9 平安時代後期
『古筆名葉集』の恵心僧都(942−1017)の条に「宿帋、聖教ノ切、草書」とあり、また『増補古筆名葉集』に至って「坂戸切、宿帋、聖教、草書、所々朱星アリ」と見える.、これは何か如来蔵(仏性)の注解書のようであるが、なお後考を要する。もとは巻子装、楮質の料紙に1行22〜23字程度の草書。ところどころ朱の句点がある.、書風より平安時代後期のものと考えられる。なお、恵心僧都と「坂戸切」の名称との関係はさだかでない。

翰墨城 247 伝源信 坂戸切
「如来蔵」(仏性)の注解書か。薄黒い料紙は宿紙(一度使用した反古の漉き返し紙)である。「宿紙は綸旨口宣等を書く紙にて、世に淡墨色の紙をいふ」とか「宿紙 薄墨之紙也、又云紙屋之紙、公家之所用也」とみえる。平安中期以降、図書寮の紙屋院で漉かれ、紙屋紙とも呼ばれた。もとは巻子本。草書体で、字を詰めて忽卒に書く。朱点が施されている。ところどころ、水濡れのような跡があって、文字がにじんだり、消えかかったりしており、読み取りにくい。筆者と伝称される恵心僧都 源信(942−1017)は、天台宗の僧。横川に居住したため、横川僧都とも呼ばれた。その著『往生要集』は、鎌倉時代の浄土教の基礎となった。源信筆の確証はないが、平安後期の筆。


伝行尊


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 191 伝行尊筆 南坊切 紙本墨書 24.9×13.2 平安
「増補古筆名葉集」行尊大僧正の条に、"南坊切、香帋経、一行十九字ヨリ廿一字マテ"と記載されるもの。写経なのか否かは判然としないが、とにかく仏書の断簡ではあろう。もとは巻子本。白地の楮紙に1行19〜21字。楷書・行書まじりの、素朴でやさしい筆致がつづいている。点画は単調で変化に乏しいが、書法くささのない、いかにも敬慶な趣がよくにじみでている。筆者は円満院の住職となった行尊(1055−1135)といわれているが、書写年代はもう少し後のように思われる。

藻塩草 178(裏61) 〔仏書断簡〕(南坊切) 伝行尊大僧正筆 楮紙墨書 24.8×5.2 平安時代後期
唐の慈恩大師基の『観弥勒菩薩上生兜率天経賛』の巻下。『増補古筆名葉集』の行尊大僧正(1057−1135)の条に「南坊切、香帋経、一行十九字ヨリ廿一字マテ」とある。経典ではなくて『観無量寿経』の注釈のようであるが、なお後考を要する。もとは巻子装、楮質の料紙に行書で、1行19字程度に書写してある。その書風、料紙より平安時代後期のものと考えられる。


伝登蓮法師


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 192 伝登蓮法師筆 葛城切 紙本墨書 25.5×9.2 平安
、「大方広仏華厳経」巻第二七・十地品第二二之五の断簡。「古筆名葉集」登蓮法師の条に"香色経、墨字"とあり、さらに「増補古筆名葉集」に"葛城切、白帋、行書経"と記録されるものに適合している。もとは巻子本(あるいは折帖装)。雁皮質の斐紙に淡墨で界を引き、楷書と行書風な筆使いで書かれている。字形は扁平で、書技にすぐれたものではないが、謹厳素朴で平明な美しさをよく発揮している。歌人として著名な登蓮(藤原能盛・平安末期)の筆跡と伝えられるが、検討する手がかりはまったくない。葛城切という名の由来も不明である。

藻塩草 180(裏63) 大方広仏華厳経巻第二十七断簡(葛城切) 伝登蓮法師(藤原能盛)筆 斐紙墨書 26.1×9.5 平安時代後期
旧華厳経巻第二十七の断簡。『古筆名葉集』登蓮法師(藤原能盛)の条に「香色経、墨字」とのみあり、また『増補古筆名葉集』には「葛城切、白帋、行書経」とある。もとは巻子または折帖装、料紙は楮まじりの雁皮質の仙花紙、「柏木切」などに見る書とよく似た紙質である。それに墨罫あり、その界高20.8p、界幅1.9p、1行17字。書風より平安時代後期と考えられる。登蓮法師は詞花和歌集以後の諸集に出てくる歌人であり、『徒然草』(第百八十八段)にも出る人物であるが、伝は未詳。したがって「葛城切」との関係も不明である。手鑑『見ぬ世の友』所収の「葛城切」もこれと同巻の断簡である。


伝俊寛僧都


見ぬ世の友
見ぬ世の友 193 伝俊寛僧都筆 水谷切 紙本墨書 24.5×16.6 鎌倉
「後撰和歌集」巻第一六・雑歌二の断簡。「古筆名葉集」に記載のない切で、この手鑑には水谷切という付箋があるが、その拠るところを知らない。もとは胡蝶装の冊子本。料紙は素紙で、一面11行書き、和歌一首は一1数字に書かれている。円く小さい字形で、かなりの速度をもって書かれたらしく、また息の長い連綿がつづいている。筆者は俊寛(?−1179)といわれるが、何ら確証はない。書写年代は、鎌倉期のものであろう。


藻塩草

翰墨城
藻塩草 183(裏66) 古今和歌集巻第六断簡(三輪切) 伝俊覚僧都筆 斐紙墨書 23.4×14.6 鎌倉時代
古今和歌集巻第六冬歌の断簡。『増補古筆名葉集』の俊寛僧都(1142−1178)の条に「三輪切、古今、哥一行書、四半」とある。もと四半の楮まじり雁皮質の料紙に、一面9行書、和歌一首1行書。書風より鎌倉時代初期のものと思われる。手鑑『見ぬ世の友』には、この「三輪切」と同筆の切が所収されているが、内容は後撰和歌集の断簡で、「水谷切」の名が付されている。手鑑『翰墨城』には、同じく伝俊寛筆の古今和歌集の断簡が収められているが、この切は少しく書風を異にする。

翰墨城 246 伝俊寛 三輪切
巻第四・秋歌上の五首分の断簡。四半型の粗い素紙に『古今和歌集』を書いたもの。もと冊子本。これは『増補古筆名葉集』俊寛僧都(?−1179)の条に、「三輪切 古今、哥一行書、四半」と記載されるものに該当しよう。「三輪切」という名称の由来は明らかでない。俊寛の書の真相は今日、皆目わからない。『古筆名葉集』は別に『後拾遺集』の四半切一点を掲げ、また、手鑑「見ぬ世の友」の中に『後撰集』を書いた「水谷切」一葉が貼付されているが、それぞれが書風を著しく異にしている。これは天地も行間も詰めて、字形を偏平に小粒に書いたもので、和歌一首一行書きのため、歌中に複音で読む漢字を随分に多用している。一種奇癖のある書風であるが、線は筆が浅く、弱々しいきらいがある。筆者を俊寛と伝えてはいるが、書写年代はいますこしのちの、鎌倉時代中ごろにあたると考えられる。


伝俊乗坊重源


見ぬ世の友
見ぬ世の友 194 伝俊乗坊重源筆 巻物切 紙本墨書 30.2×16.1 鎌倉
「増補古筆名葉集」俊乗坊重源上人東大寺大仏勧進の条に、"巻物切、杉原帋、法事役付人名ハ他筆ナリ"と記録されるものに相当しようか。もとは巻子本で、料紙は宿紙のようである。重源(1121−1206)は、鎌倉初期における浄土宗の僧。造東大寺勧進職に補せられ、東大寺再建につとめた人である。東大寺領の備州国馬屋河内保の公文職補任について勧進所の裁許を乞うた解で、それに勧進所の主であった俊乗坊重源が、袖書して裁許したもの。袖書の下文(右の三行)の筆者が重源で、その花押も見られる。自由自在な、いかにも練達した筆致を感得することができよう。


藻塩草
藻塩草 184(裏67) 〔写経断簡〕(奈良切)または(五輪塔切) 伝俊乗坊重源筆 楮紙墨書 24.7×9.9 鎌倉時代
『別訳雑阿含経』の巻第七の断簡。『古筆名葉集』の俊乗坊重源上人(1121−1206)東大寺大仏勧進の条に「香番経切」とあり、『増補古筆名葉集』には「五輪塔切、薄香色墨字経、墨罫、虫喰アリ、裏二五輪ノ形スミ印アリ、故ニ云」とある。紙背に高さ5pほどの五輪の宝塔印形黒印のあるところから「五輪塔切」といわれる。『藻塩草』付属の目録ではまた「奈良切」とも呼んでいる。重源の自筆書状の元久2年(1205)勧進状などと比し、自筆とはいい難い。書風より鎌倉時代初期のものと考えられる。もと巻子本、楮質の料紙に墨罫あり、界高19.6p、界幅1.9〜2.0p、1行17〜18字。


翰墨城
翰墨城 248 伝重源 五輪塔切
写経の断簡。もとは巻子本。素紙に墨界を引き、行書体で忽卒に書く。起筆より終筆が肉太で、右下がりの線が特徴的。切全面にわたって、虫食いの跡が目だつ。紙背に、高さ5.2pの宝塔形の黒印を押しているのが透けてみえるが、「五輪塔切」の名称はここに由来する。筆者は重源(1121−1206)と伝称される。彼は俊乗坊と名のり、はじめ醍醐寺で真言を、のち法然について浄土教を学んだ浄土宗の僧。治承4年(1180)、東大寺は平重衡の南都焼き討ちに遭って、大仏の首は落ち、その堂塔の大部分を焼失した。その際、彼がただちに造東大寺勧進職に補せられて、東大寺再建のために力を尽くしたことは有名。この断簡については、重源真筆という確証ばないが、時代的には齟齬しない。鎌倉初期のころのもの。


伝覚明


藻塩草
藻塩草 185(裏68) 〔写経断簡〕(飛騨切) 伝覚明筆 楮紙墨書 25.9×5.7 鎌倉時代
『摩詞般若波羅蜜経」の巻第二十七の断簡。『増補古筆名葉集」の太夫坊覚明(?−1361)の条に「飛騨切、香帋墨字経、文字左リ下リ」とある。浄土教関係の写経断簡のようであるが、なお後考を要する。もとは巻子または折帖装、料紙は仙花紙のような粗い楮紙で、その独特の癖のある書風から、地方で作られた写経のように思われる。墨罫があり、その界高19.5p、界幅1.9p、1行16〜19で一定しない。覚明は、信州康楽寺の開山で、木曽義仲の右筆であったことなどから考えて、この写経は飛騨の某寺から出た経巻と思われる。覚明の自筆書状と比較して、この切は同筆とは認め難い。ただ書風、料紙より覚明の頃、すなわち鎌倉時代初期のものとみられる。


翰墨城
翰墨城 249 伝覚明 写経切
素紙に薄墨の界を引いた中に、端正で筆力の充実した楷書体で書写する。筆者を鎌倉時代の傑僧で、木曾義仲の右筆をつとめた大夫坊覚明と伝えるが、確証はない。その書風から、書写年代は少なくとも平安初期をさかのぼるものと思われる。


伝顕昭法師(太秦顕昭)


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 195 伝顕昭法師(太秦顕昭)筆 賀茂切 紙本墨書 24.2×14.8 鎌倉
「古今和歌集」巻第八・離別歌の断簡で、「増補古筆名葉集」太秦顕昭法師の条に"賀茂切、四半、古今、哥二行書"と記録されるものに相当する。もとは四半の冊子本。白地の雁皮質の料紙に、一面8行書き、和歌一首は2行書き。書は、筆がしなやかによくのび、細太の変化の美しい書きぶりである。連綿の調子は、実に達者なものがある。筆者は歌人 歌学者として有名な顕昭といわれるが、確証はない。賀茂切の名は、京都賀茂社あたりに伝来したことによるのであろう。

藻塩草 186(裏69) 古今和歌集巻第五断簡(賀茂切) 伝太秦顕昭筆 斐紙墨書 23.6×14.6 鎌倉時代
古今和歌集巻第五秋歌下の断簡。『増補古筆名葉集』の太秦顕昭の条に「賀茂切、四半、古今、哥二行書」とある。もとは綴葉装、楮まじり雁皮質の料紙に一面8行書、和歌一首2行書。「賀茂切」という呼称の由来は、京都の賀茂社か、加茂家より出たためであろう。その書風などより、鎌倉時代中期は下らないものと考えられる。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 196 伝顕昭法師筆 建仁寺切 紙本墨書 15.5×15.3 鎌倉
「源氏物語」中の和歌についての注釈書の断簡と思われる。うきふねの段の『恋しくは……云々』『こひしなん……云々』に関する注釈書で、さらに細かな仮名で傍注が加えられている。もとは桝形の冊子本。うすでの斐紙に、本文は一面九行書き。仮名は円く簡略な字体が多く、かなり速く書かれたものらしい。顕昭は「古今集注」をはじめ多くの歌集の注釈本を著わしている。この断簡も多くの注が加えられているので、顕昭を筆者に宛てたものであろう。「増補古筆名葉集」太秦顕昭法師の条には、"建仁寺切、六半、源氏景図註"と記されている。もと建仁寺に伝来したため、この名があると思われる。


伝西行法師


見ぬ世の友

翰墨城
見ぬ世の友 197 伝西行法師筆 白川切 紙本墨書 17.3×15.3 平安
「後撰和歌集」巻第五・秋歌上の断簡。白川切という名は、奥州の白河から起ったという人もいるが、明確ではない。「増補古筆名葉集」西行法師の条には"白川切、六半、後撰、哥二行書、江戸切ト云、杉原帋"とあり、別に江戸切とも呼ばれていた。もとは六半の胡蝶装冊子本で、料紙は素紙。和歌一首は2行あるいは2行数字に書かれている。書は、やや側筆で緩急自在に書き流しているが、筆はよく暢達し、細太の線もほどよく調和している。
筆者は西行(1118−1190)といわれているが、西行筆一品経和歌懐紙と比べると別筆であることが判然とする。しかし、書写年代は、西行と同時代の平安末期であろう。

翰墨城 254 伝西行 白河切
『後撰和歌集』巻第八・冬歌の断簡。「白川切」とも書く。もと、素紙を重ねた大和綴の上下二冊本であったらしい。今日確認できるのは、すべてその上冊の断簡。90葉・約220首余りが現存する。西行筆と伝えるが、「一品経和歌懐紙」など、彼の真跡と比較して明らかに異筆。しかし、およその書写年代は、西行と同時代、平安末期と考えられる。名称は奥州白河の伝来によるものといわれるが明らかでない。あるいは、白河藩主松平定信 楽翁(1758−1829)の所蔵にちなむものか。また、別に「江戸切」の名もある。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 198 伝西行法師筆 針屋切(五首切) 紙本墨書 25.7×16.3 平安
「右大臣家百首」の断簡で、俊恵法師の歌五首を収めるもの。右大臣家百首とは、右大臣九条兼実(1179−1207)が治承2年(1178)3月20日から6月29日までに、藤原実定・季経・頼輔・源頼政ら14人に20題各五首の歌、すなわち百首を詠ましめたものである。なぜか針屋切と呼ばれるが、ふつうは、一題につき五首ずつの歌を書写しているので五首切といわれている。また別に、兼実百首切、郭公の歌を書写した断簡は郭公切ともいわれている。もとは巻子本。料紙は素紙で、和歌一首2行書き。いかにも速く書いたと思われる筆致であるが、字形はよく整い、線は流麗自在にしてよく暢達している。そして、連綿もごく自然に流れている。筆者は西行といわれるが、真跡とは断定できない。平安末期から鎌倉初期の書写になるものであろう。


藻塩草
藻塩草 187(裏70) 宮河歌合断簡(月輪切)または(御裳濯川切) 伝西行(円位)筆 楮紙墨書 25.9×12.6 平安時代後期
宮河歌合の断簡。『古筆名葉集』の西行法師(1118−1190)の条に「御裳濯川切、帋杉原、自詠也」とあり、また『増補古筆名葉集』には「月輪切、自詠御裳濯川哥合、左右番付判詞アリ、杉原帋」とある。『藻塩草』付属の目録には、伝西行筆「御裳濯川切」と記されているが、この切の内容は、宮河歌合であり、内容を取り違えて名付けたものと考えられる。西行筆と伝えるが、西行自筆書状、国宝一品経和歌懐紙などと比し、その筆蹟特徴はよく似ているが、同筆とは断定し難い。もとは冊子本、楮質の奉書様料紙に一首2行書。書風より平安時代後期のものと考えられる。


翰墨城
翰墨城 253 伝西行 小大君集切
平安朝の女流歌人として有名な小大君(コダイノキミ)は、三条院(東宮)の女蔵人左近。天禄のころ、少将藤原朝光と恋愛、中宮婬子に仕え、のち、三条天皇の立坊(東宮になる)にともない、女蔵人となった。歌集は追憶風の自纂形式。西本願寺に蔵する「本願寺本三十六人家集」に収める「小大君集」が、最古の伝本。胡蝶装の小形升型本の「小大君集」(伝西行筆)の一冊が伝存していた。紙数は38枚、うち、墨付の部分が36枚。中に3枚の補写があった。これは、その早くに失われた断簡で、補写の部分に該当するものである。細く鋭い線が、流れるような美しさをみせている。筆者を西行(1118−1190)と伝えているが、その真跡たる「一品経和歌懐紙」や「消息」(御物)などに比べて、別人の筆であるが、わずか一枚の断簡ながら、「小大君集」の伝本として、きわめて貴重な価値をもっている。西行と同時代、つまり、12世紀後半のころの書写。


翰墨城
翰墨城 255 伝西行 出雲切
図版の第3首が、『新勅撰和歌集』巻第十五・恋歌五に、股富門院大輔(藤原信成の女)の歌として採られ、第4首は『続後撰和歌集』巻第十三・恋歌三に所収されるもので、その詞書に「百首の歌よみ侍りける時股富門院大輔」とあるところから、「股富門院大輔百首」の断簡といわれるが、今日、その全貌を知ることができない。もちろん、西行の筆跡ではないが、スピード感あふれる、変転自在な筆法で、しかも、力強く息の長い連綿は、西行筆と伝える一連の古筆切に共通する要素である。名称の由来は不明であるが、あるいは、出雲守某の所蔵によるものか。十三世紀初頭の遺品。


伝文覚上人


見ぬ世の友
見ぬ世の友 199 伝文覚上人筆 高山切 金銀砂子散紙本墨書 26.2×3.3 鎌倉
この2行の断簡は何の経典を書いたものなのか判然としえないが、「増補古筆名葉集」文覚上人高雄の条に"経切、砂子、金卦、一行十七字"と記載されるものに適合しよう。もとは巻子本。白紙に金泥の界を引き、金銀の砂子をいちめんに撒き散らしている。文字は整然としているが、点画も結構も固いもので、通常の写経にはあまり見られない書風である。異体字も多く用いられている。筆者は文覚(遠藤盛遠)と伝えられるが、もとより確証あってのことではない。書写年代は、鎌倉期に入ってからのものであろう。なお、高山切という名の由来は不明である。


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 200 伝文覚上人筆 消息切 紙本墨書 31.4×16.2 鎌倉
ザラッとした素紙に、まったく自由闊達に筆が走った書状の断簡。付箋がないため、誰の何という切なのか不確かではあるが、この手鑑の配列からすれば、文覚上人の消息ということになるのであろう。「増補古筆名葉集」文覚上人高雄の条に、"志賀切、カナ文、虫喰アリ、類キレアリ"という記載があるが、はたしてこれに相当するものか否かは、なお後考を要しよう。

藻塩草 188(裏71) 書状断簡(消息切) 伝文覚筆 杉原楮紙墨書 28.0×9.3 鎌倉時代
『古筆名葉集』の文覚上人(?−1203)の条には「仮名文切」とのみあり、『増補古筆名葉集』に至って「志賀切、カナ文、虫喰アリ、類キレアリ」とある。『藻塩草』付属の目録では「志賀切」と書いて抹消してある。何の書状断簡か、文意が判じ難い。紙背には写経らしきものが書写してあり、経裏消息と思われる。料紙は、楮質のいわゆる杉原紙、その紙は虫喰あとが著しい。文覚筆と伝えるが、その自筆書状と比し、同筆とは認め難い。手鑑『見ぬ世の友』や、手鑑『翰墨城』所収の伝文覚上人筆書状断簡は、筆蹟特徴から自筆と認められる。


伝寂蓮法師


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 201 伝寂蓮法師筆 右衛門類切 紙本墨書 21.3×14.8 平安
「詞花和歌集」巻第七・恋上の断簡。「古筆名葉集」寂蓮法師の条に、"右衛門切、中四半、四方墨卦、哥二行書、古今集、木下右衛門ヨリ出ル"という記載がある。もと木下右衛門が所蔵していたので"右衛門切"と名付けられたのであろう。ふつう右衛門切というのは、古今集の断簡をさすものであって、これと同筆の「詞花和歌集」と「千載和歌集」の断簡は、"右衛門類切"と呼んで区別している。付箋には右衛門切と記されているが、ここでは右衛門類切と改めておこう。もとは胡蝶装の冊子本。料紙は素紙で、墨で枠罫を引いている。一面6〜7行書き、和歌一首は2行書き。書は細太の変化の著しい抑揚のある筆致であるが、いささか暢達した趣に欠けている。筆者は寂蓮法師(?−1202)と伝えられるが、自筆の懐紙に比べるとまったく書風が異っている。おそらく、平安末期から鎌倉初期にかけて書写されたものであろう。

藻塩草 189(裏72) 古今和歌集巻第八断簡(衛門切)または(右衛門切) 伝寂蓮筆 斐紙墨書 20.5×13.8 平安時代後期
古今和歌集巻第八離別歌の断簡。『古筆名葉集』の寂蓮法師(?−1202)の条に「右衛門切、中四半、四方墨罫、哥二行書、古今集、木下右衛門ヨリ出ル」とあり、普通は「右衛門切」と呼ばれる。もとは四半の綴葉装、雁皮質の料紙に淡墨の枢郭を、その天地と右に施してある。その界高16.2p、一面6行書、和歌一首2行書となっている。筆者を寂蓮と伝えるが、その自筆と認められている一品経和歌懐紙や、熊野懐紙に比し、似たところもあるが、同筆とは認められない。伝寂蓮筆「右衛門類切」などとは、いずれも同筆と認められる。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 202 伝寂蓮法師筆 佐野切 金銀泥鳥草花下絵紙本墨書 31.7×21.5 平安
治承2年(1178)3月15日、神主賀茂重保(1119−1191)の主催により上賀茂神社で行なわれた歌合の断簡。この歌合は、霞・花・述懐の三題に各三〇番、合計九〇番180首を収めるもので、判者は藤原俊成(1114−1204)である。一般には賀茂社歌合切といわれ、「増補古筆名葉集」寂蓮法師の条に"巻物切、哥合、砂子帋"と記されるものに相当しよう。もとは巻子本。金銀泥で鳥・草花・折枝を大きく描いた斐紙に、和歌一首2行書き。線は平明で単調であるが、紙面いっぱいに大きく整然と書かれたところからみて、浄書本のように思われる。筆者は寂蓮(?−1202)と伝えられるが、自筆の懐紙などと比べると断定はできない。おそらく、この歌合の歌人の一人であった寂蓮を筆者に宛てたものであろう。なお、佐野切という名の由来は不明である。


翰墨城
翰墨城 259 伝寂蓮 田歌切
『増補古筆名葉集』の寂蓮の条にある「田哥切 四半、国々ノ田哥ヲ集タルナリ、朱星アリ」に相当する断簡。諸国の田植え歌を集めたもの。平安中期のころ、田植えを鑑賞する風習が盛んになり、田楽がおこった。それが末期になると雑芸の一つとして田歌が流行した。大嘗会の田歌をはじめ、美濃・筑紫・陸奥・尾張・丹後などの田歌が世に知られている。中には、京の今宮神社の「やすらい」の歌詞などもあり、雑芸の集成としてかなり大がかりに書き集められたものと考えられる。今日、こうした田歌は古筆切として伝存しているが、その代表的なものがこの寂蓮筆と伝えるものである。歌の頭に朱点、また区切り目には朱線がみられるところから、歌唱するためのテキストでもあったことが知れる。もと巻子本で、その書は偏平にして右肩が上がり、同じ字形の文字をくり返して使用しているのが特徴である。筆者を寂蓮と伝える古筆は、この「田歌切」をはじめ、「右衛門切」「大鏡断簡」「大坂切」「下絵歌合切」など数多く伝存するが、いずれも寂蓮自筆の「一品経和歌懐紙」「熊野懐紙」と比較して明らかに別筆である。この「田歌切」は平安朝末期の書写になるものと考えられる。


伝寂然法師


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 203 伝寂然法師筆 村雲切 金銀箔散紙本墨書 16.8×12.8 鎌倉
「貫之集」第二の断簡で、「古筆名葉集」大原寂然の条に"小四半、砂子帋、寄二行書、定家卿加筆アリ"とあり、さらに「増補古筆名葉集」に"村雲切、小四半、砂子帋、哥仙家集、哥二行書、定家卿ノ加筆アリ"と記されるものに適合する。もとは小四半の胡蝶装冊子本。白地の斐紙に、金銀の細かな切箔をいちめんに撒き散らしている。和歌一首2行書き。文字は豊円な姿で統一されるが、線は細く、用筆は緩急自在で独得の奇癖がある。筆者は寂然(藤原頼業)といわれているが、寂然自筆の一晶経和歌懐紙に比べても相似たものをもっている。また本文の所々に書かれた細字は、藤原定家の加筆であるが、寂然は定家の叔父にあたるので、この断簡は、所伝の通り寂然の真筆と考えることも可能であろう。なお、村雲切という名の由来は明らかでない。

藻塩草 190(裏73) 貫之集巻第七断簡(村雲切) 伝寂然筆 金銀箔散斐紙墨書 16.4×14.6 平安時代後期
貫之集巻第七の断簡。『古筆名葉集』の寂然法師(?−1180?)の条に「小四半、砂子帋、哥二行書、定家卿加筆アリ」とあり、また『増補古筆名葉集』の大原寂然の条に「村雲切、小四半、砂子帋、哥仙家集、哥二行書、定家卿ノ加筆アリ」とあるものに適合する。もと小四半の升形粘葉装、雁皮質の料紙の文字の上に、後から金銀切箔が一面に撒いてある。「村雲切」との名称は、もと京都の村雲御所にあったためと思われる。筆者を寂然と伝えるが、寂然自筆の一品経和歌懐紙に比し、その筆蹟特徴はよく似ており、あるいは自筆であるかもしれない。藤原定家自筆の加筆があり、もと定家の所持本であったことがうかがわれる。寂然は定家の叔父であり、この粘葉装の末尾には、他本の例より考えて、おそらく奥に定家の識語があったものと考えられる。「村雲切」は、貫之集以外の類品がなく、また西本願寺本三十六人家集「貫之集」の歌の配列とも合致しないので、三十六人家集の「貫之集」ではなく、別種のものであったと考えられる。

翰墨城 261 伝寂然 村雲切
『貫之集』巻第二の断簡。銀の小さい切箔が全体に撒かれた料紙で、もとは胡蝶装の冊子本。和歌一首を2行に、墨のたっぷりとした線で自由に書いている。くるくると回転するような運筆に特徴があり、いかにも個性が強い。同じ字母をくり返し使っているのが、独特の奇癖があるだけにいっそう目だってみえる。手鑑「藻塩草」・「見ぬ世の友」「大手鑑」にも同じ切が収蔵され、いずれも筆者を寂然と極めるが、真跡と確認できるものが伝わらないのでその当否はわからない。2首めの割書きに「新古今」と集付けがみえるのは、藤原定家の校合の跡で、これを『新古今和歌集』に採用したことを示している。一連の断簡にも同様にたくさんの抹消・加筆がみられる。定家の母は、寂然の弟・寂超の妻であった人であり、この冊子がかつて定家のもとにあったであろうことも、充分にうなずかれる。

翰墨城
翰墨城 260 伝寂然 歌集切
「村雲切」とともに、筆者を藤原為業 寂然と伝えるが、両者を比較して、同一の手になるとは思えない。この断簡は、快いばかりに線が伸びやかで、筆端もよく利いている。これと同筆のものが、手鑑「見ぬ世の友」に所収され、寂超(寂然の弟)筆、「大冨切」と命名されている。しかし、寂然・寂超ともに、真跡と確認できるものはなく、いずれも伝称としてとどめておくほかない。12世紀末期のころの書写。


伝寂念法師


見ぬ世の友
見ぬ世の友 205 伝寂念法師筆 松本切 紙本墨書 23.3×15.2 鎌倉
「後拾遺和歌集」巻第一五・雑一の断簡で、「増補古筆名葉集」大原寂念の条に"四半、後拾遺、哥二行書、墨流帋"と記されるものに相当しよう。もとは冊子本。この断簡は白地の楮紙であって、裏文字がすけて見える。一面8行書き、和歌一首は2行書き。運筆は巧妙で自在に書いているが、歌切としては妙に縦長な形で統一され、筆画も遠まわしで力強さに欠けている。筆者を寂念(藤原為業・平安末期)と伝えているが、何ら確証はない。また松本切という名についても、その拠るところを知らない。


翰墨城
翰墨城 262 伝寂念 松本切
『後拾遺和歌集』巻第十二・恋歌の断簡。もとは冊子本、墨流しの料紙に一面8行書き、和歌一首2行書き。縦長の文字が特徴。筆者は寂念と伝えられる。書風より推して平安末期の書写と考えられる。命名の由来は明らかでない。寂念の筆跡としては、「一品経和歌懐紙」が知られるが、その筆跡とは酷似するが、同筆とはいえない。


伝寂恵


藻塩草
藻塩草 191(裏74) 古今和歌集巻第十四断簡(石見切) 伝寂恵筆 斐紙墨書 23.5×14.5 鎌倉時代
古今和歌集巻第十四恋歌四の断簡。『増補古筆名葉集』の寂恵の条に「石見切、四半、古今、哥二行書」とあるものに適合する。もとは綴葉装、雁皮質の料紙に一面9行書、歌2行書で行間に注がある。弘安元年(1278)11月書写奥書を有する、重要文化財の寂恵本古今和歌集と司筆と認められるところから、寂恵の自筆本とわかる。その他、「四半切」と呼ばれるものも、「石見切」と同筆であるところから自筆の切とわかる。

翰墨城
翰墨城 263 寂恵 後撰集切
『後撰和歌集』巻第八・冬歌の断簡。もとは四半の冊子本。雁皮質の料紙に一面10行、和歌2行書き、行間に注がある。この切はその筆跡の特徴から弘安元年(1278)11月書写の奥書を有する「寂恵本古今和歌集」に酷似しており、また、その本の断簡たる伝寂恵筆「石見切古今集」とも同筆と思われるので、所伝のとおり、鎌倉時代の歌僧 寂恵(俗名は安倍範光)の真筆であろう。