伝弘法大師(空海)
|
|

見ぬ世の友 |

藻塩草
|

翰墨城 |
|
見ぬ世の友 182 伝弘法大師(空海)筆 南院切 紙本墨書 27.7×6.7 平安(唐)
「新撰類林抄」の断簡で、「増補古筆名葉集」弘法大師の条に"南院切、草書、中字・詩"と記されるものに相当する。新撰類林抄がいかなる書物であるかは未詳であるが、現存する零本の「新撰類林抄巻第四残巻」をみると、王維・李白・銭起らの唐代詩人の詩を、歳時・分題によって細かく類別聚集した詩篇であることがうかがわれる。もと巻子本であったろう。楮紙に淡墨で界をひき、1行11〜12字、みな草書で書かれている。文字は右肩をいからした縦長な風で、点画は力強く、のびのびとして弾力性に富む書きぶりである。書写された年代は不明であるが、昔から空海(774−835)の筆跡と伝えられている。それは、空海筆金剛般若経開題の草書に雰囲気がよく似ていること、この巻物がもと高野山の南院に伝来したことにより、この筆者を空海に宛てたものと思われ、今日では、この断簡は非常に精密な双鉤填墨本であるとされている。双鉤填墨の法は、中国の晴唐期に発達した一種の複製法であって、わが国には例がない。したがって、この書は唐人の手になったものと考える方が妥当のようである。南院切とは、高野山の南院に伝来したことによる命名であろう。
藻塩草 170(裏53) 新撰類林抄断簡(南院切) 伝弘法大師(空海)筆 楮紙墨書 27.7×11.9 平安時代前期
新撰類林抄の断簡。『増補古筆名葉集』の弘法大師(774−835)の条に「南院切、草書、中字詩」とある。もとは巻子装、楮質の料紙に墨罫あり、その界高22.4p、界幅2.4p、1行12字。『新撰類林抄』は、唐土の人の詩を分類した本のように思われるが、断簡しか伝わらないので、なお明らかにし難い。日本、中国の古来の書籍目録にもその名は見えず、撰者などは不明である。しかし巻第四の残巻の巻頭題によってこの書物の名がわかる。この断簡中には、中国の詩集に見当らない作者や詩が数々あり貴重である。空海などによって請来されたため空海筆と伝称されてきたのかもしれない。双鈎填墨ではなく、ゆっくりとした運筆の写本とみられる。『新撰類林抄」のまとまったものとしては、最近国宝に指定された巻第四残巻、428行の零巻が知られている。「南院切」という呼称の由来は、空海と関係のある東大寺の南院に伝わったためかもしれないが、なお明らかでない。
翰墨城 234 伝弘法大師 南院切
『新撰類林抄』の断簡。楮質の素紙に薄墨界を引いた枠内に書写する。今日、巻第四の残巻228行分がまとまって伝わるほかは、断簡として「南院切」の名に呼ばれるが、その数は少ない。一字一字を切り離して丁重に書写しているが、同じ草書体でも省画の文字が含まれていて読みにくい一面がある。その書風は、唐太宗の「屏風書」などによく比較され、確かに類似点は見いだされるが、二、三文字の連続などが処々に散見され、流動的であるのに対し、この「南院切」は文字が孤立していて筆法にきわめて忠実な点に特徴がある。むしろ、弘法大師の「金剛般若経開題」に、共通性がより多く認められ、同時代の筆と推定される。しかし、同筆とはいえない。いずれにしても唐代の書風を伝える筆致を示しており、弘法大師自筆ではないが、その系統に類別されるべきものである。
|
|

見ぬ世の友 |
|
|
|
見ぬ世の友 183 伝弘法大師(空海)筆 鼠跡心経(コロコロ心経) 紙本墨書 23.7×43.2 鎌倉
ザラッとした一枚の楮紙に、「般若心経」全文を書写したもの。罫もひかず、1行20字ほどに配字した細字だが、なかなかに手慣れた技巧を駆使している。文字は草書体だが、小さく円く書かれており、まるで鼠の足跡のように見えるため鼠跡心経(略して鼠心経)といい、また文字がコロコロした趣なので、コロコロ心経ともいっている。この種の写経の断簡が、世に多く散在している。あるいは、誰かが、日課のように般若心経を書写したものかもしれない。この末尾の少し離れたところに、"沙門空海"という署名がある。このため、古くから空海の筆跡として喧伝されてきたのだが、空海自筆の諸本と比べれば、別筆であることは歴然としている。おそらく、鎌倉時代に書写されたものであろう。
|
|
|
|

翰墨城 |
|
翰墨城 232 伝弘法大師 絵因果経切
四巻の「過去現在因果経」を上下二巻ずつに分けた、もとは八巻の巻子本の断簡。料紙は黄麻紙で、下半分に経文を書き、その内容を上半に絵で表現している。絵は素朴な描法で色彩も簡潔であり、非常に力強く、明快で人間味にあふれている。書風は、いわゆる写経体。筆力勤健、字形も端正である。天平時代の書写。当時、八巻一セットの「絵因果経」がいくつか制作されたらしい。絵と経文を並列したものに唐経の「随求陀羅尼神呪経」(上段に経文)があり、この様式は中国渡来のものと考えられる。この断簡は弘法大師空海(774−835)筆と伝えるが、「絵因果経」が高野山に伝来したため、後世、大師信仰の波に乗り流布した誤伝である。
|
|
|
|

翰墨城 |
|
翰墨城 233 伝弘法大師 草字切
弘法大師の筆と伝称されている「智恵訪文」と「鼠跡心経」に酷似する。仏書を書いたものであろう。速い筆をくるくると用いるこの書風は、きわめて特異なもの。平安時代も比較的早いころの書写であろう。
|
|
|
|

翰墨城 |
|
翰墨城 235 伝弘法大師 草字切
空海の真跡には、草書の遺品も多くみることができる。その中で、この断簡のように細字で書かれたものは、『三十帖策子』の第二十六帖、第二十七帖というものぐらいである。比較的条件の近い二つを比べると、全体の感じに共通点がある。これは、両者の手習いの原本が共通であることからきたものであろう。しかし、筆跡は同筆とはいえない。「判比量論」の断簡といわれる「東寺切」が最もよく似ている。これらに共通するのは、草書でありながら、一字一字が独立しており、連綿の少ないこと。孫過庭の草書など、中国の草書をそのまま伝える書風であることなどである。いろいろな書風を学び、それぞれをよくこなした空海を、自筆の遺品と書風上共通のこれらの筆跡の筆者としたのであろう。内容は詳しくはわからない。
|
|
|
|

翰墨城 |
|
翰墨城 236 伝弘法大師 詩書切
巻子本の断簡。「益州城西張起亭観妓」と題する王無功(字は勣)の詩。早くから空海の筆跡と伝えられたものらしく、『新撰古筆名葉集』にも、「弘法大師……巻物切 中字行書詩 一行九字許朱ニテ別人ノ訳字アリ」と記される。「風信帖」をはじめ、いくつかの空海の真跡と比較すれば明らかに異筆。むしろ、王義之以来の正統な書法を受け継いだ、唐人の手になったものとみるのが妥当と思われる。おそらく、平安時代、遣唐使などによって舶載されたものであろう。行草体に書かれた本文の右側にある、楷書の朱書は別人の筆跡。わずか一葉ながら、書道史上貴重な遺品である。八世紀ごろの書写であろうか。
|
|
|
|

|
|
翰墨城 237 伝弘法大師 大日経開題切
現在、醍醐寺三宝院に所蔵する一巻の外題(後人の手)に、「大日経開題 高祖御手跡」とあるところから、「大日経開題」の名で親しまれ、弘法大師空海の真跡と伝えられて著名である。この断簡は早くに切断され、別途に伝来した一葉で、珍重すべきもの。真言密教の根本経典『大日経疏』を披読した空海が、心覚えに書き付けた手控えのノートと思われる。いわゆる著者の草稿本ではない。行間や紙背にまで書き足された文字が、彼のたゆまぬ研鎖のあとを物語っている。通行の数種の『大日経開題』とは本文を異にし、『弘法大師全集』では、仮に「大日経疏要文記」と題して、一連の『大日経開題』とは区別している。「三十帖冊子」などと同様、自分自身のためのノートであるという性格上、まったく気取りというものが感じられない。しかし、禿筆を馳せたその小さな文字にも、中国書法を根底とした空海の確かな筆法をみることができる。
|
|
|
|

翰墨城 |
|
翰墨城 238 伝弘法大師 仏書切
この断簡は、1行17字ではなく、30字近くが書写されており、いわゆる経文ではない。おそらく、それらに関した仏書であろう。文字のまわりには、平安時代以後にみられる訓点の一種である朱点や平安初期の遺品によくみられる白点が残されており、かなり読まれ、研究されていたものであることがわかる。弘法大師空海の真跡と比べ、同筆ではないが、平安初期の筆跡と思われる。
|