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   の比較-6

藤原基俊


見ぬ世の友
見ぬ世の友 142 藤原基俊筆 多賀切 紙本墨書 24.3×14.6 平安
 「和漢朗詠集」巻下・鶴部の断簡で、「増補古筆名葉集」藤原基俊朝臣の条に、"巻物切、朗詠、哥二行書、卦アリ、片カナツキ、朱書入星アリ"と記録されるものに相当しよう。世に多賀切と呼ばれるが、その名の拠るところを知らない。もとは巻子本。白地の斐紙に淡墨で界をひき、摘句は七言二句一行書き、和歌一首は二行に書いている。また摘句には、墨字の訓と朱点が書きこまれている。
 巻下の巻末にあたる断簡には、本文と同筆で『永久4年(1116)孟冬二日、扶老眼点了、愚曼基俊』という二行にわたる奥書がある。したがって多賀切は、藤原基俊(道長の曽孫・1055−1142)の真筆と肯定せらるることとなった。文中の訓点なども、すべて基俊が加筆したものである。この奥書の年記はあくまでも加点のときのものゆえ、本文の書写はそれ以前ということになる。

藻塩草

翰墨城
藻塩草 140(裏23) 新撰朗詠集巻上断簡(山名切) 伝(藤原)基俊筆 金銀箔散下絵斐紙墨書 27.0×9.4 平安時代後期
 新撰朗詠集巻上九月尽の部の断簡。『古筆名葉集』の藤原基俊(1055〜1142)の条に「藻ノ下画、銀砂子地、新撰朗詠」とあり、また『増補古筆名葉集』には「山名切、自撰新撰朗詠、銀泥紅葉蝶鳥藻等ノ下画、一行十四字」とある。もとは巻子本、雁皮質の料紙には全面に金銀の切箔を撒き、銀泥で蝶、鳥、草花などの下絵が描いてある。「山名切」の呼称の由来は、もと山名家の所蔵にかかるものであったためであろうが、なお明らかでない。「山名切」は、藤原基俊が永久4年(1116)10月訓点を加えた旨の奥書を有する「多賀切和漢朗詠集」と全く同筆であり、しかもその新撰朗詠集は基俊が公任の朗詠集に倣って選んだ著述であるから、基俊の自筆自撰の本として貴重である。

翰墨城 196 藤原基俊 山名切
素紙に金銀の切箔を撒き、銀泥で蝶・鳥・折枝などを描いた料紙に、『新撰朗詠集』巻上を書写した断簡。もとは巻子本。この切と同筆に「多賀切」があり、陽明文庫に伝わる一葉には「永久4年(1116)孟冬(10月)2日扶老眼点了、愚隻基俊」と記されている。これにより、この「山名切」も『新撰朗詠集』の撰者 藤原基俊(1056−1142)の真筆と断定できる。平安朝の古筆において筆者の判明するものはまれであるが、とくに伝本のわずかな『新撰朗詠集』において、「山名切」は撰者自筆本としてきわめて貴重。奇癖に満ちた独特の書風は、その弟子 藤原俊成(1114−1204)に影響を与えている。「山名切」の名称は、和歌・茶の湯をよくした武人山名豊国(禅高)の旧蔵に由来するものか。


伝藤原顕輔


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 144 伝藤原顕輔筆 鶉切 雲母摺下絵文様紙本墨書 25.0×15.3 鎌倉
 「古今和歌集」巻第一九・誹譜歌の断簡(第一〇五一〜三番の歌に該当)で、「古筆名葉集」左京大夫顕輔卿の条に、"鶉切、大四半、白キラ、粟ニウズラノ画アリ、其外人形艸木モァリ、古今集、二行書"と記されるもの。料紙に鶉の文様が多くあるので鶉切というが、草木・人家・風景のものも鶉切の名で親しまれている。また、芭蕉と唐子の文様の断簡は唐子切ともいわれている。もとは冊子本。料紙は白地の唐紙。和歌一首は、二行あるいは一行数字など、種々の形式に書かれている。字形は縦長で、運筆は軽快であるが、側筆で書いたものらしく、いささか潤に欠けるきらいがある。筆の抑揚・細太のバランスは、ことに美しい。料紙の図柄が美しいので、古来愛玩される歌切である。筆者は藤原顕輔(1090−1155)と伝えているが、鎌倉時代の書写になるものと考えられる。

藻塩草 141(裏24) 古今和歌集巻第十六断簡(鶉切) 伝(藤原)顕輔筆 雲母摺下絵文様斐カラ紙墨書 22.4×15.8 鎌倉時代
 古今和歌集巻第十六哀傷歌の断簡。『古筆名葉集』の左京大夫顕輔(1090〜1155)の条に「鶉切、大四半、白キラ粟ニウヅラノ画アリ、其外人形草木モアリ、古今集、二行書」とある。もとは四半の綴葉装、雁皮質の白または茶色の唐紙に、雲母の押箔で鶉、人家、草木、風景などが下絵してある。それに一面10行書、和歌一首2行書。切の名は、鶉文様のものが多いところから「鶉切」と呼ばれる。これと同じ料紙を用いた二条為教の書風より、鎌倉時代中期を下らぬものと考えられる。

翰墨城 197 伝藤原顕輔 鶉切
『古今和歌集』巻第十七・雑歌上の断簡。もとは冊子本。唐紙に鶉・草木・人家・唐子などを雲母文様で刷り出した料紙にちなんで命名される。唐子の型文様の切は、「唐子切」とも称される。運筆は軽快で、墨継ぎによる濃淡、筆線の太細は、リズミカルで美しい紙面を構成している。筆者を藤原顕輔(1090−1155)と伝えるが、やや時代の下る鎌倉初期の書写。


伝藤原清輔


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 145 伝藤原清輔筆 内裏切 紙本墨書 24.3×14.8 平安〜鎌倉
 「古今和歌集」巻第八・離別歌の冒頭の断簡。「古筆名葉集」藤原清輔朝臣の条に"四半切、古今集、哥二行書、上ニ書入アリ"とあり、「増補古筆名葉集」には、"内裏切、四半、古今、哥二行書、首ニ書入アリ"と記されている。もとは冊子本。雁皮質の斐紙に、一面九行書き、和歌一首は二行書き、その書はべっとりとした柔らかい書きぶりである。天地の広い余白には沢山の細かい墨および朱の注記があり、これにより内容は「清輔本古今集」であることが認められる。それゆえ従来この断簡は、清輔本古今集の転写本とされ、古筆家が筆者を清輔(1104−1177)に宛てたものといわれてきたが、最近久曽神昇氏は、この内裏切こそ清輔の自筆本であるとの新しい説を発表している。内裏切という名称は、もと内裏に伝来したからとか、また、伝藤原清輔筆古今集二帖の巻末識語に内裏の文字があるからとかいわれているが、詳しいことは判らず、清輔の筆跡とされる古今集はすべて内裏切と呼ばれている。

藻塩草 142(裏25) 古今和歌集巻第十八断簡(内裏切) 伝(藤原)清輔筆 斐紙墨書 25.4×15.6 鎌倉時代
 古今和歌集巻第十八雑歌下の断簡。『古筆名葉集』の藤原清輔(1104〜1177)の条に「四半切、古今集、哥二行書、上ニ書入アリ」とあり、また『増補古筆名葉集』に至って「内裏切、四半、古今、哥二行書、首ニ書入アリ」とある。もとは四半の綴葉装、雁皮質の料紙に一面9行書、和歌一首2行書となっている。「内裏切」というのは、内裏にあったからではなくて、保元2年(一一五七)本と呼ばれる国宝の伝藤原清輔筆古今和歌集二帖(前田育徳会蔵)の識語の初めに「従二坊御時一召二籠内裏数年之後、平治元年(1159)7月9日返預也。云々」とあることによって命名されたらしい。また、この本の書込みや、保元2年本古今和歌集との比較から、この「内裏切」こそが、藤原清輔の自筆とすべきもので、保元2年本は、清輔が古今和歌集を写したものと考えられている。手鑑『見ぬ世の友』所収の「内裏切」は、古今和歌集巻第八の巻頭部分であり、比較検討に参考となる。

翰墨城 199 伝藤原清輔 内裏切
『古今和歌集』巻第十六・哀傷歌の断簡。もとは冊子本。雁皮質の素紙に、和歌を2行書きにし、上部を広く開けて、同筆にょる勘物の書き入れがなされている。今日、保元2年(1157)の奥書を有する『古今和歌集』が、「清輔本」の中でもっとも代表的存在であるが、それは鎌倉時代の写本である。この一葉は、藤原清輔の自筆本とされている。その書風は優雅な王朝古筆の趣をすでに脱し、筆力を表面に打ち出した法性寺流の特色が見いだされる。


翰墨城
翰墨城 198 伝藤原清輔 古今集切
藤原清輔(1104−1177)の筆と伝えるものは、「内裏切」の名で知られる『古今和歌集』の断簡と、「朗詠」の「巻物切」のみである。この一葉は、『古今和歌集』巻第十八・雑歌下の「風吹けばおきつしらなみたつた山……」に付加された詞書の部分で、「内裏切」とは異筆である。その書は、文字の背丈が低くて丸みをもつ字形と、筆線の太細を極端に表わした書風に特徴があり、書写年代は鎌倉中期のころと推察される。もとは、六半の升型冊子本で、異筆の細字墨書の書き入れがあり、それによって藤原定家の貞応2年本系統の写本と校合したことがわかる。


伝藤原家隆


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 146 伝藤原家隆筆 升底切 紙本墨書 15.1×14.6 鎌倉
 「金葉和歌集」巻第二・夏歌部の断簡。「古筆名葉集」正三位家隆卿の条に、"升底切、六半、金葉集、哥三行書、五合升ノ大サ也"と記されるもので、料紙が升の底のように方形であるため、升底切と名付けられている。もとは六半の冊子本。料紙は雁皮質の斐紙で、一面九行書き、和歌一首は三行に書かれている。書は、まるで料紙の形に合わせたかのごとく、方形の文字を積み重ねたように整然としている。文字は小さく、多肉の線で構成されている。筆者は、「新古今集」の撰者の一人で、歌人として著名な藤原家隆(1158−1237)と伝えられるが、自筆本が熊野懐紙だけしか伝わらず、なお後考を要しよう。

藻塩草 143(裏26) 金葉和歌集巻第三断簡(升底切) 伝壬生家隆筆 斐紙墨書 15.2×13.4 鎌倉時代
 金葉和歌集巻第三秋歌の断簡。『古筆名葉集』の正三位家隆(1158〜1237)の条に「升底切、六半、金葉集、哥三行書、五合升ノ大サ也」とある。紙背に裏面の和歌が見え、もとは六半の升形冊子装とわかる。雁皮質の料紙に一面8行書、和歌一首2行書。「升底切」の名称はその料紙が方形であるからそう呼ばれる。家隆筆と伝えるがその自筆和歌懐紙と比し、なお断定し難い。手鑑『翰墨城』所収の「升底切」も金葉和歌集巻第三秋歌の断簡である。このほか家隆筆と伝えるものは中院切千載和歌集をはじめ十五種を数える。


翰墨城
翰墨城 200 伝藤原家隆 古今集切
藤原家隆(1158−1237)には、『古筆名葉集』によると、「升底切」はじめ全部で五種類の古筆が記載されている。このうち、「大六半古今集」とあるのが、この断簡に相当するものと思われる。内容は、『古今和歌集』巻第十七・雑歌上の部の詞書部分で、和歌2行書きである。原装は冊子本であった。書風は、家隆のものに近い点もあるが、自筆の「和歌懐紙」と比べる限りでは、その真筆とは断定しがたい。鎌倉時代に入ってからの13世紀末の書写であろう。


翰墨城
翰墨城 201 伝藤原家隆 升底切
『古筆名葉集』によると、「升底切」は「六半 金葉集哥三行書五合升ノ大サ也」と説明される。『金葉和歌集』巻三・秋歌の歌と詞書が書写されている。もとは升型の冊子本。和歌一首3行書きで、命名は料紙の形から呼ばれるものである。手鑑「見ぬ世の友」には『金葉和歌集』巻二・夏歌の断簡、手鑑「藻塩草」には巻三・秋歌の断簡が「升底切」として収められている。13世紀初頭の書写。


翰墨城
翰墨城 202 伝藤原家隆 古今集切
『古今和歌集』を書写した升型の冊子本の断簡。巻第十八・雑歌下の部分の一ぺージ分である。筆者を藤原家隆と伝える古筆は種類が多く、彼が歌道の上で、いかに重んぜられたかを物語る。『新撰古筆名葉集』は、「升底切・中院切・祐海切・本能寺切……」など十六種の古筆を掲げるが、これはそのうちの「大六半 古今哥二行書」とあるのに相当。筆を自在にあやつって書きこなした文字は、法性寺流の影響を受けた典型的な鎌倉初期の書風である。しかし、「熊野懐紙」など家隆の真跡と比較すると、法性寺流であるという共通点は認められるが、この切のほうに曲線がめだち、明らかに異筆。家隆と同時代の別人の筆跡ということになる。13世紀初頭の遺品。


伝藤原有家


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 147 伝藤原有家筆 多田切 銀箔散紙本墨書 15.3×12.3 鎌倉
 「新古今和歌集」巻第六・冬歌の断簡。多田切という名は旧所蔵者の名にちなむものであろうが、墨流染の料紙が多いため、一般には墨流切の名で親しまれている。「増補古筆名葉集」藤原有家卿の条には、"墨流シ切、小四半、新古今、哥二行書、帋スミ流シ銀砂子"と記されている。もとは小さな冊子本。銀の切箔をあらく撒いた斐紙に、一面八行書き、和歌一首は二行に書かれている。文字は整斉として小さく、線も細いが、筆のくいこみはなかなか鋭く力強い。筆者は、「新古今集」の撰者の一人ということで藤原有家(1155−1216)に宛てたのであろうが、自筆の懐紙と比べてみると、明らかに書風は異っている。詳写年代は鎌倉初期と考えられよう。

藻塩草 144(裏27) 新古今和歌集巻第六断簡(多田切) 伝源有家筆 墨流シ銀砂子斐紙墨書 15.5五12.5 鎌倉時代
 新古今和歌集巻第六冬歌の断簡。『古筆名葉集』の藤原有家(1155〜1216)の条に「小四半、帋墨流シ銀砂子、哥二行書、新古今」とあり、また、『増補古筆名葉集」に「墨流シ切、小四半、新古今、哥二行書、帋スミ流シ銀砂子」とあるものに適合しよう。もと六半の小冊子本で、雁皮質の料紙に墨流し文様があるところから、一般には「墨流切」といわれている。それに金銀のこまかい切箔が全面に撒いてある。一面8行書、和歌一首2行書。「多田切」という名称の由来は不詳。国宝の一品経和歌懐紙のうちの有家筆懐紙と比し、同筆とは認め難い。その力強い書風や墨流し料紙より、鎌倉時代初期のものと思われる。


翰墨城
翰墨城 206 伝藤原有家 墨流切
美しい墨流しをあしらった上に、金銀の小切箔を散らした料紙に『新古今和歌集』巻四・秋歌上を書写した断簡。『古筆名輩』の藤原有家(1155−1216)の条に「小四半 帋墨流シ銀砂子哥二行書 新古今」とあり、また『増補古筆名葉集』に「墨流シ切 小四半 帋新古今哥二行書 帋スミ流シ銀砂子」とあるものに相当する。もとは小冊子本で、雁皮質の料紙に墨流文様があるところから、古来一般に「墨流切」の名で親しまれている。手鑑「藻塩草」「見ぬ世の友」にも同種の断簡が「多田切」の名で所収されているが、この名称の由来は明らかでない。書写年代は、この書がいわゆる後京極様をふまえた縦長で、張りをもった筆線を示しているところから、13世紀の初めころの筆と思われる。筆者を『新古今和歌集』の撰者の一人であるところから藤原有家にあてたと思われるが、彼の自筆懐紙と比べて、明らかに別筆である。


伝藤原信実


見ぬ世の友

見ぬ世の友 148 伝藤原信実筆 粟田切 紙本墨書 29.4×16.1 鎌倉
 「法然寺本地蔵縁起絵巻」(地蔵験記絵巻)の詞書の断簡で、粟田切という名称は、京都粟田口の青蓮院に伝来したためと考えられるが、確証はない。「古筆名葉集」にも、この切に関する記載はまったく無い。もとは巻子本で、料紙は雁皮質の斐紙。紙の天地は切断され、随分と折れや損傷が甚しい。字形はよく整い、線は穏やかで、仮名と行草体の漢字とが自然に調和している。当時の名だたる能書家が書いたものであろう。鎌倉時代の歌仙絵や絵巻物は、当時の絵師藤原信実(1176−1265)の作と伝えるものが多いが、これも縁起ものの断簡ゆえ、筆者を信実に宛てたものと思われる。

翰墨城 211 伝藤原信実 粟田切
紙本着色「法然寺本地蔵縁起絵巻」(地蔵験記絵巻)の断簡。もとは巻子本。楮まじりの雁皮質の料紙に一行15〜17字程度、紙の天地は手鑑に収めるために、切断して寸法を縮めている。この断簡の文章は、手鑑「藻塩草」所収の「粟田切」5行のあとに接続し、手鑑「見ぬ世の友」所収の「粟田切」6行へ続くもので、この「粟田切」三断簡は、「地蔵縁起絵巻」の第一段の詞書のあとへ連続する。「粟田切」の名称は、この断簡が、京都 粟田口の青蓮院より出たためと考えられるが、確証はない。書風より鎌倉時代中期のころの書写と考えられる。


伝藤原秀能


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 149 伝藤原秀能筆 三宅切 紙本墨書 21.6×15.3 鎌倉
 藤原定家の撰になる「新勅撰和歌集」巻第九・神祇歌部の断簡で、「増補古筆名葉集」大屋秀能の条に"三宅切、新勅撰、哥二行書、老筆ナリ"と記録されるものに相当する。もとは冊子本。料紙は斐紙で、一面八行書き、和歌一首は二行書き。筆をふるわせるように、しかもあちこちへとぶつかりながら進んでいくような運筆で、筆脈のうるさいところに特色がある。筆者を藤原秀能(1184−1240)というが、何ら確証はない。三宅切という名についても、その拠るところを知らない。

藻塩草 146(裏29) 新勅撰和歌集巻第九断簡(三宅切) 伝藤原秀能筆 斐紙墨書 21.8×15.4 鎌倉時代
 新勅撰和歌集巻第九神祇歌の断簡。『増補古筆名葉集』の大屋(藤原)秀能(1186〜1240)の条に「三宅切、新勅撰、哥二行書、老筆ナリ」とあるのに適合する。もとは四半の綴葉装、雁皮質の料紙に一面7行書、和歌一首2行書である。「三宅切」の呼称の由来は不詳。秀能筆と伝えるが、自筆の熊野類似和歌懐紙と比し同筆とは認め難いが、鎌倉時代のものと考えられる。同じく大屋秀能筆「佐伯切」と呼ばれる古今集の断簡(手鑑『翰墨城』所収ほか)に比し、この「三宅切」は老筆で個性のある書風である。手鑑『見ぬ世の友』所収の「三宅切」も、新勅撰和歌集巻第九神祇歌の断簡である。

翰墨城 204 伝藤原秀能 三宅切
藤原(大屋)秀能(1186−1240)は、河内守藤原秀宗の次男。この断簡は、『増補古筆名葉集』の大屋秀能の古筆としてあげられる「三宅切」である。その説明によると、老筆とあるが、筆が震えたような筆致はいかにもそのようにみえる。なお、秀能自筆の懐紙と比べて同筆とはいえない。


翰墨城
翰墨城 205 伝藤原秀能 佐伯切
秀能は、俵藤太の伝説を生んだ藤原秀郷の末流で、歌人として生涯を終えた。秀能の歌は、『新古今和歌集』『新勅撰集』など数多くの歌集に載せられており、家集『如願法師集』を残している。また『増補古筆名葉集』には、「三宅切」と「佐伯切」の二点が、彼の古筆としてあげられている。筆致は法性寺流の影響を強く受けたもので、鎌倉時代の13世紀中期以降のものであろう。これも自筆の懐紙と比べて同筆とはいえない。


伝源家長


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 150 伝源家長筆 天王寺切 金銀箔野毛散紙本墨書 16.2×12.4 鎌倉
 聖徳太子(574−622)の伝記を書いた断簡で、「古筆名葉集」源家長朝臣の条に"小四半、砂子帋・縁起"とあり、「増補古筆名葉集」に"天王寺切、巻物、六半形、太子伝記、村砂子アリ"と記されるものである。もとは巻子本。金銀の砂子・切箔・野毛を撒いた雁皮質の料紙に、整然とした漢字仮名交りの文が書かれ、漢字には小さく読仮名が附されている。書は、謹んだ穏やかな書きぶりである。筆者を源家長(?−1234?)と伝えるが、自筆の熊野懐紙などと比べて、なお断定はしがたい。鎌倉時代には、聖徳太子の伝記を描写した絵巻などが数多く制作されたが、これも、当時における太子信仰を裏付ける一つの資料であろう。天王寺切という名称は、聖徳太子が四天王寺を建立した事実に結びつけてのことであろう。

藻塩草 147(裏30) 聖徳太子伝断簡(天王寺切) 伝源家長筆 金銀箔下絵斐紙墨書 16.3×18.7 鎌倉時代
 聖徳太子の伝記の和文。『古筆名葉集」の源家長の条に「小四半、砂子帋、縁起」とあり、『増補古筆名葉集』に至って「天王寺切、巻物、六半形、太子伝記、村砂子アリ」とある。「天王寺切」という呼称の由来は、聖徳太子と四天王寺との関係によったものであろう。もとは小さい巻子装、雁皮質の料紙には、大小の金の切箔、銀の野毛、砂子が斜めの文様に撒いてある。それに一行12字前後に仮名まじり、行書し、真名には読仮名が付してある。その書は源家長筆と伝えるが、自筆の熊野懐紙に見る筆蹟特徴と比し、なお断定し難い。このほか、伝家長筆として有名なものに「龍田切」がある。そしてこの切は家長の自筆懐紙等に比し、自筆の可能性が強い。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 151 伝源家長筆 龍(立)田切 紙本墨書 23.9×5.9 鎌倉
 「和漢朗詠集」巻下・仙家に収められる七言二句(温庭?)の断簡で「増補古筆名葉集」源家長朝臣の条に"巻物切、四半形、朗詠"と記容れるものに相当しよう。この手鑑の付箋には、龍を見せ消ちして立と書いてあるが、一般には龍田切と書かれている。しかし、その名の拠るところを知らない。もとは巻子本。料紙は鳥の子紙。同類の切は、摘句は七言二句二行書き、和歌一首二行書き。仮名の方は、かなり字粒を小きく、行をつめて書いている。この断簡はよく整った行草体で書かれ、運筆は軽快・巧妙で、円熟した筆致をみせている。筆者を源家長と伝えているが、自筆の懐紙に比べると趣を異にしており、当時よほど法性寺流をよくした能書家が書いたものであろう。


翰墨城
翰墨城 207 源家長 和歌懐紙断簡
源家長(1170−1234)は、鎌倉時代初期の歌人。この懐紙には「散位源家長」と位署があるが、彼の生涯において散位であったのは正治2年(1200)までであるから、当然この懐紙の書写年代もそれ以前ということになる。家長の自筆懐紙は、現在数枚伝存しているが、その中の一枚に、同じ「散位」の位署をもち、その端裏紙に「正治二年七月四日当座」と書すものが残っている。この一紙と書風がほとんど同じであるところから、この懐紙もその時期のものと推定される。その書きぶりは、忽卒の感が強いが、字形は均整がとれており、線質も秀潤にして穏やかである。とくに、仮名は技巧を弄することなく、一見、稚拙にも見まがうばかりに、沈着に書写しており、彼の人間性がにじみでている。


伝洞院公賢


藻塩草
藻塩草 148(裏31) 千載和歌集巻第二十断簡(三善切) 伝洞院公賢筆 斐紙墨書 16.0×15.8 南北朝時代
 千載和歌集巻第二十神紙歌の断簡。『増補古筆名葉集』の洞院公賢(1291〜1360)の条に「三善切、千載、哥二行書」とある。もとは六半の升形の綴葉装、雁皮質の料紙に一面12行書、和歌一首2行書。前記『増補古筆名葉集』に、洞院公賢筆と伝える切は、この「三善切」しか所収されていないが、手鑑『翰墨城』には、切名のない伝洞院公賢筆新古今和歌集の断簡が貼布されており、この[三善切千載集」とは同じ筆と認められる。洞院公賢自筆の三条西家本園太暦に比し、この「三善切」は同筆とは認め難い。しかし、その書風、料紙より南北朝時代のものと考えられる。


翰墨城
翰墨城 209 伝洞院公賢 新古今集切
『新古今和歌集』巻第八・哀傷歌の断簡。もとは冊子本。洞院公賢(1291−1360)の真筆としては書状が伝わるが、書状と和歌とでは比較がむずかしく、同筆と断定はできない。ほかに公賢筆と伝えるものは、手鑑「藻塩草」に「三善切」が所収されるが、これもまた、伝称筆者の域を出ない。筆者は確定できないが、書風からみて、鎌倉末から南北朝の書写になると思われる。


伝藤原定実


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 152 伝藤原定実筆 粉河切 雲母引紙本墨書 32.8×15.9 鎌倉
 「古筆名葉集」世尊寺殿定実卿の条に"巻物切、鳥ノ子帋、キララ地、マンナカンナ交リ"とあり、また「増補古筆名葉集」に"粉川切、巻物、粉川寺縁起、鳥ノ子、キララ地、真名カナ交リ"と記録されるものに相当する。現存する粉河寺縁起は火災のために画面の上下に焼けこげのあとがあり、最初の詞と絵とを失っているが、その書風と粉河切の書風とはまったく異っている。したがって粉河切は、粉河寺縁起の断簡ではない。その内容は弘法大師関係の絵詞を書いたものであり、もと和歌山粉河寺に伝わったので、粉河切と呼んだものであろう。もとは巻子本。料紙は雲母引きの斐紙。漢字・仮名交りの愛らレい筆致がつづいており、筆はよく暢達し、平明な趣を示している。筆者を藤原定実(1063−1131?)と伝えているが、この書風は鎌倉中期ごろのものであろう。

藻塩草 149(裏32) 弘法大師絵詞断簡(粉川切) 伝世尊寺定実筆 雲母箔散斐紙墨書 33.4×6.8 鎌倉時代
『古筆名葉集』の世尊寺定実(1063〜1119)の条に「巻物切、鳥ノ子帋、キラゝ地、マナカナ交リ」とあり、『増補古筆名葉集」に「粉川切、巻物、粉川寺縁起、鳥ノ子キラゝ地、真名カナ交リ」とある。沙門真済撰遍照発揮性霊集序文の中に「……今有日本沙門来求聖教、以両部秘奥壇儀印契、唐梵無差悉受於心。……」とあるものを、国訳したのがこの部分。秘密縁起の成立は、弘法大師没後約四百五年頃すなわち文永弘安頃と推定されているが、この「粉川切」は、その書風、料紙よりみて鎌倉中期は下らず、秘密縁起の成立期などを考える上に参考となる。前述『増補古筆名葉集』にはこの切を粉川寺縁起と伝えているが、この文句の箇所は現存する国宝粉河寺縁起、元禄本及び群書類従本粉河寺縁起のいずれにも見られない。書風からは国宝粉河寺縁起の詞書とは異なり、むしろ井上本『山王霊験記」などに近い。とすれば、「粉川切」という呼称の由来は弘法大師絵巻が、粉河寺に伝わったため「粉川切」と呼ばれ、それがいつしか粉河寺縁起の断簡と誤伝されるに至ったことが考えられる。もとは巻子装、雁皮質の料紙に一面に雲母が箔散してある。

翰墨城 212 伝藤原定実 粉河切
細かな雲母を撒いた斐紙に漢字 仮名まじりの文を書いた、わずか2行の断簡。線の肥痩、墨の濃淡を意匠的に巧みに配しながら、よく暢達した運筆が、丸みのある親しみやすい書風をかもし出している。古筆家は筆者を藤原行成四世の孫 定実と鑑定しているが、この書風はさらに降って、鎌倉中期のものと思われる。もとは巻子本。これと同筆の五行分断簡が手鑑「見ぬ世の友」に収められているが、その付箋に「粉河切」とある。『古筆名葉集』世尊寺殿定実卿の条に「巻物切 鳥ノ子帋、キララ地、マンナカンナ交リ」とあり、『増補古筆名葉集』に「粉川切 巻物、粉川寺縁起、鳥ノ子、キララ地、真名カンナ交リ」とも記録されている。「粉河寺縁起」は火災に遭い、画面・詞書ともはなはだしく焼失しているが、それと「粉河切」とを比べると、書風はまったく異なっており、「粉河寺縁起」の断簡ではない。その出自は不明だが、なにか仏伝図に関する絵詞を書いたもののようである。


伝藤原伊経


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 153 伝藤原伊経筆 久世切 紙本(香斐紙)墨書 24.2×11.0 鎌倉
 「万葉集」の仮名の歌だけを抄書したものの断簡。もとは巻子本。料紙は香木の粉末をすきこんだ珍しいもので、和歌一首は三行に書かれている。「古筆名葉集」世尊寺殿伊経卿の条に"巻物切、万葉、サラサ地"とあり、さらに「増補古筆名葉集」に"久世切、四半、立長、哥三行書、更紗地"と記されるものに相当する。字形は縦長で大きな構えをみせ、線は繊細流麗にして、筆は息が長くよく暢達している。墨色の濃淡の変化がまことに美しい。筆者は藤原伊経(?−1227)と伝えるが、実証する手がかりはない。この書風は、平安末〜鎌倉初期のものと考えられる。久世切という名の由来は、この害がもと公卿の久世家に伝来したからと思われるが、詳しいことは明確でない。

藻塩草 151(裏34) 万葉集抄断簡(久世切) 伝(世尊寺)伊経筆 香斐紙墨書 24.3×12.5 鎌倉時代
 草仮名書の万葉集の断簡。『古筆名葉集』の世尊寺伊経の条に「巻物切、万葉、サラサ地」とあり、また『増補古筆名葉集』には「久世切、四半、立長、哥三行書、更紗地」とあるものに適合。この切が、万葉集仮名書きのみであることは、手鑑『見ぬ世の友』所収の同切断簡の内容から推察される。このように真名書を省いて、仮名のみで書いた万葉集ではもっとも古いものであろう。もとは巻子装、料紙には装飾写経などに用いる香木を漉き込んだ雁皮紙に、和歌一首3行に書写してある。伊経筆と伝えるが、その真蹟が確認されておらず比較し難い。伊経筆と伝える「尼子切」、「四半歌合切」、「難波切」など、いずれもみなこの「久世切」とその書風を異にする。しかし、書風より平安時代末期から鎌倉時代初期のものと考えられる。


藻塩草
藻塩草 150(裏33) 拾遺和歌集抄巻第一断簡(尼子切) 伝(世尊寺)伊経筆 金銀下絵染斐紙墨書 20.7×15.5 平安時代後期
 拾遺和歌集抄巻第一春の断簡。『増補古筆名葉集』の世尊寺伊経(?〜1227)の条に「尼子切、四半、拾遺、哥三行書、浅黄帋、銀泥下画アリ」とある。もとは冊子装、雁皮質の浅葱染紙に銀泥で飛鳥、胡蝶、折枝などの下絵文様がある。それに一面6行書、和歌一首3行書となっている。現存する「尼子切」のうち知られているのは巻第一春の部の断簡ばかりという。「尼子切」の呼称の由来は、何か尼子氏に関係があったためかもしれないが、なお確証をえない。
筆者は世尊寺七代の伊経と伝えるが、前田家本北山抄巻第三〈拾遺雑抄上〉、同巻第七〈都省雑事〉に見る伊房(1030〜1096)の奥書などを根拠として、その筆蹟特徴より判断して、この「尼子切」は、藤原伊房筆との説が有力である。この「尼子切」に見る書は、筆力充実し、筆勢は鋭いものがあり、しかも華麗にまとめられており、院政期初めにおける名品の一つといってもよいであろう。藍紙本万葉集、十五番歌合と同手である。この「尼子切」で世に知られるものは非常に少なく、手鑑『見ぬ世の友」や手鑑『翰墨城』にも貼押されていない。


翰墨城
翰墨城 213 伝藤原伊経 難波切
平安時代に書写された五大万葉集のうち元暦元年(1184)校合の識語があるものを、「元暦校本万葉集」と呼んでいる。その巻第十四・東歌の断簡。もと粘葉装の冊子本で、料紙は鳥の子紙に藍紫の飛雲を点じ、欄界を施したもの。その中に、文字を整然と配置した感はあるが、細筆の穂先を利かした力強い筆致が展開している。『元暦校本万葉集』はもと全二十巻であったと思われるが、いずれも完存しておらず、切り離された断簡は「有栖川切」、あるいは「難波切」といわれている。「「難波切」の名称は、俵屋久左衛門愛蔵のころ、難波あたりで切断されたことに由来するものであろう。この筆者を古筆家は藤原伊経(?−1227)といい、神田道伴は藤原光俊(1202−1275)と極めているが、ともに確証はない。この「万葉集」は寄合書きであり、各帖にさまざまな筆者が当てられているが、その書写年代は11世紀の半ばのころと考えられる。


伝藤原行能


見ぬ世の友
見ぬ世の友 154 伝藤原行能筆 宇治切 紙本墨書 15.7×13.7 鎌倉
 「新古今和歌集」巻第一・春歌上の断簡で、第三〇〜三二番の歌に該当する。「増補古筆名葉集」世尊寺殿行能卿の条に、"六半、新古今、哥二行書"と記載されるものに相当しよう。もとは桝形の冊子本で、料紙はうすでの斐紙。一面一〇行書き、和歌一首は二行書き。線は非常に細く、なでるような書きぶりで、文字はコロコロと円く小さい。筆者は藤原行能(1179−1240)といわれるが、もとより確証はない。書写年代はもう少しあと、鎌倉申期のものであろう。宇治切という名の由来は明らかでない。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 155 伝藤原行能筆 三条切 紙本墨書 30.4×16.8 鎌倉
 「和漢朗詠集」巻上・夏の納涼部の断簡で、「増補古筆名葉集」世尊寺殿行能卿の条に"巻物切、朗詠、白帋、哥二行書"とあるのに相当しようか。世に三条切の名で呼ばれるが、その拠るところを知らない。もとは巻子本で、料紙は白地の斐紙。摘句は七言二句一行書き、和歌一首二行書き、漢字・仮名ともに整斉にして温雅な書風であるが、筆力に乏しい。漢字に比べて仮名は小さく、線も細く柔軟に書かれている。これも藤原行能の筆跡と伝えているが、確証あってのことではない。やはり、鎌倉中期の書写になるものであろう。


藻塩草
藻塩草 152(裏35) 和漢朗詠集巻下断簡(藤井切) 伝(世尊寺)行能筆 斐紙墨書 31.3×14.2 鎌倉時代
 和漢朗詠集巻下雑部「山水」の断簡。
『古筆名葉集』の世尊寺行能(1179〜1255)の条に「巻物切、朗詠、砂子下画雲帋」とあり、また『増補古筆名葉集』には「藤井切、巻物、朗詠、墨罫」とある。一般に「朗詠集切」とも呼ばれる。もとは巻子装、雁皮質の料紙に墨罫あり、その一墨罫に真名は一行書き、仮名は二行に割書きされている。その界高25.7p、界幅2.9p。「藤井切」という名称の由来は明らかでない。手鑑『見ぬ世の友』では、これと同じ切の断簡が「三条切」と名付けられている。
行能筆と伝えるが、行能の自筆書状に比し、この切の書は同筆とは認められないが、その筆蹟は世尊寺本流の書というべきみごとなものである。書風より平安時代末期から鎌倉時代初期と認められる。


翰墨城
翰墨城 214 伝世尊寺行能 藤井切
『和漢朗詠集』巻下・仏事の断簡。料紙は楮紙で、天地と行間、さらに、地の界から2.6センチ上に横界を引いている。地のその欄瓦な、摘句.和歌の作者名を書き入れる。摘句は界一行に一行書きを保っているが、和歌は小さな字粒で界一行に二行を書く。漢字は行草体で、丸みのある穏やかな書風。しかし、線はやや弱く、単調である。筆者として伝えられる世尊寺(藤原)行能(1179−1255?)は、行成から数えて八代の孫で、一門の中興の祖。『公卿補任』に「世尊寺」の家名が登揚するのは、行能以後である。当代屈指の能書であったが、この切については確証がない。


翰墨城
翰墨城 215 伝世尊寺行能 源氏物語切
『源氏物語』総角の断簡。平安朝の能書家は物語を書かなかったが、行能も当然それを墨守した。行能真筆の確証はないが、物語切の筆者に伝称されていることは、すこぶる注目に値する。


翰墨城
216 伝世尊寺行能 新古今集切
升型の素紙に『新古今和歌集』巻第三・夏歌を書いた断簡。『新撰古筆名葉集』の、「六半 新古今哥二行書」に該当する。もとは冊子本。筆者と伝える世尊寺行能は、多くの能書活動の記録を留めているが、今日その真跡と確証されるものはほとんどなく、わずかに「書状」が、自筆と認められるくらいであろうか。それとの比較において、全体的に筆が浮いている感じで、重厚味に欠けるように思われ、同筆とは断じがたい。


伝藤原経朝


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 156 伝藤原経朝筆 玉津切 金銀箔散下絵紙本墨書 26.6×19.6 鎌倉
 「蜻蛉日記」上・葵のまつり(康保3年・966)の項の冒頭にあたる断簡。玉津切という名の由来は判らぬが、「増補古筆名葉集」世尊寺殿経朝卿の条にも"玉津切、巻物、大四半形、集未詳、金銀切箔砂子、銀下画アリ"と記されている。手鑑「藻塩草」にも同類の玉津切が貼付されているが、この断簡とは文様がぴたりと接続し、文章も続いている。もとは巻子本。雁皮質の斐紙に金銀の切箔・砂子を雲・霞状にあしらい、銀泥の飛雲・金銀泥の飛雁を簡略に描出している。まことに豪華な、美しい料紙である。書は筆力にやや欠けるが、字形は整斉であり、線は豊潤、温雅な書きぶりである。これは鎌倉時代における絵巻の詞書によく見うけられる、ゆったりとした世尊寺流の書である。筆者は藤原経朝(1215−1276)といわれるが、実証する手がかりはない。しかし、料紙・書風から推して、鎌倉初期の害写になるものであろう。

藻塩草 153(裏36) 蜻蛉日記絵詞断簡(玉津切) 伝(世尊寺)経朝筆 金銀箔散下絵斐紙墨書 27.0×19.9 鎌倉時代
 蜻蛉日記上、康保3年(966)の葵のまつりの条の断簡。『増補古筆名葉集一一の世尊寺経朝(1215〜1276)の条に「玉津切、巻物、大四半形、集未詳、金銀切箔砂子銀下画アリ」とある。もとは巻子装、雁皮質の料紙に金銀の切箔、砂子をもって雲霞状に撒き、銀泥で雁などが下絵して荘厳であり、かつ書写の態が絵巻の詞書風であるので、たんなる読書用に全文をそのまま写した写本とは思えない。したがって蜻蛉日記を抜粋して絵巻物にした詞書と思われる。筆者を経朝と伝えるが、自筆の法華経巻第四の移点奥書等に比し、同筆とは認められない。しかし、その装飾料紙、書風より鎌倉時代初期は下らないものと考えられる。手鑑『見ぬ世の友』の「玉津切」は、この『藻塩草』本の前に相接続するもので、ともに蜻蛉日記の研究上、貴重な資料である。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 157 伝藤原経朝筆 天野切 金銀箔砂子散紙本墨書 25.6×12.9 鎌倉
 金銀の切箔・砂子・野毛を霞状に撒き、天地に銀泥で太く横罫を引いた斐紙に、大きくたっぷりとした調子で漢字の行草体が書かれている。一行九字。字形は整斉にして点画は温雅、世尊寺流の書風である。もとは巻子本であったろう。これはわずか三行だけの断簡でもあり、書かれた内容が何であるのか、知る手がかりを得ることができない。「増補古筆名葉集」世尊寺殿経朝卿の条に"巻物切、縁起、行書、雲帋、金銀砂子"という記載があるが、もし、これに適合するとするならば、昔から何かの縁起ものの断簡と考えられてきたのであろう。天野切という名称の由来も明らかではない。筆者は、藤原経朝といい伝えられている。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 158 伝藤原経朝筆 後拾遺集切 金銀切箔野毛散下絵紙本墨書 19.0×16.3 鎌倉
 雲・霞・流水を描きだし、金銀の切箔・野毛をほどよく撒いた斐紙に、大きく整斉な仮名がシッカリとした筆致で書かれている。まことに荘厳でしかも華美な、鎌倉期の仮名遺品としては立派な風を誇示している。「後拾遺和歌集」巻第三に相模の歌として収められる歌一首の断簡で、もとは巻子本だったのであろうが、今は色紙形に切断されている。付箋がなく、伝称筆者も古筆切としての名称も判然としないが、この手鑑の配列からすれば、藤原経朝の筆跡ということになるのであろう。


翰墨城
翰墨城 218 伝世尊寺経朝 和漢朗詠集切
世尊寺(藤原)経朝(1215−1276)は、世尊寺行能の子として、世尊寺家を継いでいるが、『尊卑文脈』によると、藤原頼資の子である。この断簡の漢詩の部分は、『和漢朗詠集』巻上・秋夜の白楽天の詩の一部だが、和歌は、『和漢朗詠集』および『国歌大観』にも未収のもの。漢詩と和歌との間には、紙継ぎ跡がみられる。しかも、左右の紙のしわは連続性がない。この漢詩と和歌は、もとは別々の位置にあったものであろう。料紙は、草花の下絵があり、もともと一巻の巻物としてつくられたものと思われる。また、内容や字配り、書風からみて、手本として書かれたものと考えられる。『増補古筆名葉集』の経朝の項には、「玉津切」ほか「四半」「同」「大四半」「同」「巻物切」の六種の古筆について説明されているが、その中に『和漢朗詠集』は見当たらない。書風は、鎌倉中期以降の世尊寺流の正統派といえるものである。筆者を経朝とするが、むろん確証はない。


翰墨城
翰墨城 219 伝世尊寺経朝 千載集切
世尊寺経朝の筆跡について、『増補古筆名葉集』の中で「四半」には、「千載哥二行書」とある。この断簡は、『千載和歌集』巻第十二・恋歌二の歌で、一首2行書きとなっており、一致する。書風は世尊寺流ではあるが、経朝筆と伝えられる「玉津切」の筆跡とも趣が異なる。むしろ、もうすこし時代の下った鎌倉末期ころの世尊寺流の手になると考えられる。


翰墨城
翰墨城 220 伝世尊寺経朝 新勅撰集切
藤原俊成(1114−1204)の長歌の前半部を記した断簡。もと冊子本の一ページ分と思われる。これは、久安6年(1150)、崇徳院の命により、14名の歌人が詠進した『久安百首』中の一首で、また、『新勅撰和歌集』巻第二十・雑歌にも採られる。仁平3年(1153)『久安百首』を部類したのは俊成自身であったが、このとき、彼はまだ顕広を名のっていたはず。作者名を「俊成」と記すこの一葉は、貞永元年(1232)に藤原定家(1163−1241)の撰進した『新勅撰和歌集』の断簡ということになる。筆者を世尊寺家九代の経朝と伝えるが確証はない。少し癖のある世尊寺流の書で、『新勅撰和歌集』成立後50年と隔たらない13世紀末ごろの写本として貴重である。


伝藤原経尹


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 159 伝藤原経尹筆 那智切 金銀箔散紙本墨書 26.6×17.1 鎌倉
 「因明入正理論疏」(大慈恩寺沙門窺基)巻第二の断簡で、「増補古筆名葉集」世尊寺殿経≠卿の条に"那智切、香紙、行書、金卦、上下金銀砂子、朱星アリ"と記されるものである。もとは巻子本。雁皮質の斐紙に金泥で太めに界を引き、天地いちめんには金銀の細かな切箔を置いている。一行一五〜六字。字形は向勢で扁平なものが多く、全体を通じて行書風に書かれている。また、文中ところどころに沫点が加えられている。筆者は藤原経尹(経朝の子・1247−1320)と伝えられるが、経尹の自筆本が知られず、実証の手がかりはない。那智切という各称は、紀州の熊野、那智社に納められたものだからであろうか。

藻塩草 154(裏37) 因明入正理論疏巻下断簡(那智切) 伝(世尊寺)経尹筆 金銀箔散斐紙墨書 26.7×11.0 鎌倉時代
 大慈恩寺沙門基撰因明入正理論疏巻下の断簡。『増補古筆名葉集』の世尊寺経尹(1237〜?)の条に「那智切、香帋、行書、金罫上下金銀砂子、朱星アリ」とあるものに適合する。もとは巻子本、雁皮質の料紙の上下には金銀砂子、それに金罫あり、その界高21.1p、界幅2.4p、一行16〜17字書、ところどころに朱の読み点が付されている。「那智切」の呼称由来は、熊野那智社に関係するものであろうか。また筆者を経尹と伝えるが、自筆作品が知られず比較し難い。手鑑『見ぬ世の友』、手鑑『翰墨城』に所収の「那智切」は、いずれも因明入正理論疏巻下の断簡で、これとはごく接近した部分である。

翰墨城 217 伝世尊寺経尹 那智切
雁皮質の料紙に金泥の界を引き、その天地に銀の小切箔を一面に撒いている。一行16文字に書写し、処処に朱の訓点を加える。練熟した行書体は、世尊寺流の和様に属する。筆者を世尊寺経尹(1247−?)と伝えるが、確証はない。『増補新撰古筆名葉集』の経の項に、「那智切 香帋行書金卦上下金銀砂子朱星アリ」と示すものに相当する。その内容は『因明入正理論疏』巻下で、もと巻子本の体裁であった。因明というのは、古代インドの学問を五つに区分した五明(明は学問の意味)の一つで、いわゆる論理学である。この学の概要を記述したのが『因明正理門論』で、唐の義浄三蔵の訳が知られ、これをさらに平易に説いたのが『因明入正理論』(玄奘三蔵訳)である。これに注釈を加えたのが、この『因明入正理論疏』である。書風や箔の装飾から推して、鎌倉末期をさかのぼる筆といえよう。


伝藤原定成


見ぬ世の友
見ぬ世の友 160 伝藤原定成筆 佐介切 紙本墨書 33.9×12.5 鎌倉
 「春日表白」の断簡で、「増補古筆名葉集」世尊寺殿定成卿の条に"巻物切、縁起、行書、一行十二三字"とあるのに相当しよう。もとは巻子本。一行一一〜二字。行草体で、天地いっぱいに大書している。書は整斉温雅、点画は肉の厚い豊潤な趣をもっている。かなり謹んだ、入念な書きぶりである。筆者は藤原定成(経尹の弟・1254−1298)といわれている。定成は当時における世尊寺家の能書として名高いが、はたしてこれが自筆本であるか否かは、なお後考を要しよう。佐介切という名の起りは不明である。


藻塩草
藻塩草 156(裏39) 〔縁起断簡〕(田原切) 伝(世尊寺)定成筆 斐紙墨書 31.0×9.6 鎌倉時代
『増補古筆名葉集』の世尊寺定成(1254〜1298)の条に「同(巻物切)、縁起、行書一行十二〜十三字」とあるものに適合し、その内容等より社寺縁起の断簡と思われる。もとは巻子本、楮まじりの雁皮質の料紙に一行12〜13字程度で行書してある。定成筆と伝えるが、これも断定し難い。しかし、その書風は世尊寺本流のすぐれた書で、鎌倉時代中期頃のものと考えられる。手鑑『翰墨城」は定成筆の「巻物切」が所収されているが、それに見る書風と同筆と認められる。また手鑑『見ぬ世の友』には同じ切が、「佐介切」の名で所収されている。その中に「当寺之洪基」の文句が見えるが、その寺の名を明らかにし難い。


翰墨城
翰墨城 223 伝世尊寺定成 後拾遺集切
世尊寺定成(1254−1298)は、世尊寺家九代経朝の次男。十代経尹の弟である。彼は世尊寺家を継がなかったので、その伝記などは詳しく知ることができないが、『増補古筆名葉集』には、兄経尹よりも多くの古筆があげられている。すなわち、「四半 後拾遺哥二行書」「六半 続拾遺」「巻物切」3点である。このうち「四半切」は、この断簡と内容が一致する。『後拾遺和歌集』巻十五・雑一の断簡で、もと冊子本。美しい筆致をみせている。定成の自筆書状が残されているが、漢字であるため比較は不可能。これが定成の筆跡という確証はない。


翰墨城
翰墨城 224 伝世尊寺定成 和漢朗詠集切
『増補古筆名葉集』の世尊寺定成の条にみえる「巻物切 朗詠集墨掛哥二行 書半カナ朱星」に相当する。もとは巻子本で、『和漢朗詠集』巻上・秋・擣衣を書写している。この断簡の筆者と伝えられる定成は、世尊寺流の能書として名高く、かなりの伝称作品を残しているが、真跡となると少なく、自署を加えた「書状」と「西園寺実氏夫人願文」のわずか二点を伝存するのみである。この断簡は、世尊寺流の書法をよく示しており、真跡との比較において似通ったところも多いが、真筆とは断定しがたい。書写年代は、定成と同時期、鎌倉時代の中期ごろと思われる。


伝藤原行尹


見ぬ世の友

見ぬ世の友
見ぬ世の友 161 伝藤原行尹筆 安土切 金銀箔野毛砂子散打曇紙本墨書 30.7×44.0 鎌倉

見ぬ世の友 162 伝藤原行尹筆 安土切 金銀箔野毛砂子散打曇紙本墨書 30.7×28.1 鎌倉
 この二つは、「新撰朗詠集」抄写本の断簡。安土切という名は、信長築城の地安土の地名からとったものであろうが、命名についての詳しい理由は判らない。もとは巻子本。料紙は雲形を施した斐紙に、金銀の砂子・切箔・野毛を霞状に撒いたもの。図柄からすると、この二つの切はそのまま前後がつながるものである。漢字は行草体をもって一行五字に大書したもの。やや筆力に欠けるが、堂々たる書きぶりである。仮名は漢字より小さめに、散らし書きしている。筆者は藤原行尹(1286−1350)と伝えられるが、断定はできない。しかし、料紙の美しさ・その書風からみて、当時能書のきこえ高い人の筆跡であることは疑いなく、おそらく高貴な方への調度手本として書かれたものであろう。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 163 伝藤原行尹筆 巻物切 打曇紙本墨書 27.3×12.8 鎌倉
 漢字仮名まじりで書いた法華経の断簡で、「妙法蓮華経」方便品第二の一部。「増補古筆名葉集」世尊寺殿行尹卿の条に"縁起切、雲帋、金卦、文字カナ交リ"と記載されるものに相当しよう。もとは巻子本。料紙は藍の雲形を施した斐紙で、金泥で界を引いている。文字は小さいが、筆に渋滞はなく、まことに愛くるしい書風である。これも筆者を藤原行尹というが、断定はできまい。非常に珍しい古筆切である。


藻塩草

翰墨城
藻塩草 157(裏40) 七社奉納和歌断簡(七社切) 伝(世尊寺)行尹筆 金銀箔散打曇斐紙墨書 30.4×14.1 南北朝時代
『増補古筆名葉集』の世尊寺行尹(?〜1350)の条に「七社切、尊氏卿七社奉納ノ内奥書名アリ、行尹代筆ナリ、巻物、雲帋、横金罫上下金銀砂子、哥二行書」とある。手鑑『見ぬ世の友』のものは、この『藻塩草』所収と同じ切の巻首部分で、「詠七首和歌道大」とあり、七社に奉納するため、一人が七首ずつ詠んだ和歌の巻物であったことが推察される。もとは巻子装、雁皮質の藍の雲紙の上下には、金銀のこまかい砂子、切箔、野毛が一面に撒いてある。天地に横に金界あり、その界高23.0p、それに和歌一首2行書である。「七社切」の呼称は「七社奉納和歌」の由来によるもので、その七社とはおそらく山王七社のことと思われる。行尹筆と伝えるが、尊氏の右筆であった行尹がこの「七社奉納和歌」のうち、奥書のみを書いたのか、この巻物全部を書いたのだろうか。そこで、この「七社切」と世尊寺行房の花押を有する短冊(前田育徳会蔵短冊帖)と比較すると、その筆跡特徴から、これは全く同筆と認められる。以上の二点からこの「七社切」は、行房の自筆になるものと考えられる。
なお、手鑑『翰墨城』所収の伝行尹筆「四半切」も、この「七社切」とは全く同筆と認められるもので、この「四半切」も行房の真蹟になると思われる。

翰墨城 225 伝世尊寺行尹 七社切
『増補古筆名葉集』の世尊寺行尹(1286−1350)の条の「七社切 尊氏卿七社奉納ノ内奥書名アリ 行尹代筆ナリ
巻物 雲帋 横金卦上下金銀砂子 哥二行書」とあるのに適合する。もとは巻子本で、雁皮質の藍の雲紙の上下に、金銀の細かい砂子・切箔・野毛を一面に撒いている。天地には墨界を引き、歌を一首2行書きにしている。この断簡は巻頭の部分で、「詠七首和歌 道大」とあるところから、七社に奉納するため、一人が七首ずつ詠んだ和歌の巻物であったことと推察できる。「道大」というのは、だれかの法名らしいが、いま、にわかに明らかにしがたい。「七社切」の呼称は「七社奉納和歌」に由来する。この七社とはおそらく山王七社を指すものと思われる。筆者を行尹と伝える。筆跡が「短冊帖」の行尹のものと似通っており、あるいは、行尹の自筆と認定することが可能かもしれない。同類の切を手鑑「藻塩草」に所収する。


藻塩草
藻塩草 158(裏41) 〔縁起断簡〕(高島切) 伝(世尊寺)行尹筆 金銀箔散斐紙墨書 29.3×13.8 南北朝時代
『古筆名葉集』の世尊寺行尹の条には「巻物切、中行字、帋ノ上下砂子アリ」とあり、『増補古筆名葉集』も「同(巻物切)、行書、中字、天地金銀砂子アリ」とある。内容は、寺の縁起か、高僧の絵伝のようであるが、なお後考を要する。もとは巻子装、楮まじりの雁皮質の料紙の天地には、大小の金銀切箔、野毛、砂子をびつしり撒き、中ほどには同じく金銀砂子が雲霞文様状に撒いてある。それに行書で一行10字〜12字程度に書かれている。「高島切」の呼称の由来は明らかでない。書風は世尊寺流のおだやかさであるが、自筆の短冊などと比し、なお同筆とは断定し難い。しかし、その装飾料紙や書風から南北朝時代のものと推定される。


翰墨城
翰墨城 226 伝世尊寺行尹 拾遺集切
『拾遺和歌集』巻第二十・哀傷に所収されるもの。なんの装飾もない素紙に、詞書、筆者、そして和歌一首を2行に書く。世尊寺流の豊潤な筆致で、連綿も無理なく書き続けられ、たいへんに手慣れた書写体である。世尊寺行尹の筆跡としては、「七首和歌懐紙」・「五首和歌懐紙断簡」が伝わるが、これらと比較して、用筆や字形が、いかにもすっきりとしていて個性がなく、とりわけ、書写に際して縦の流れの強いのが印象的である。どちらも南北朝時代の特徴がよく現われており、似ている点もあるが、同筆とは認めがたい。


翰墨城
翰墨城 227 伝世尊寺行尹 仮名法華経切
漢字 仮名まじりの調和体で書かれた「法華経」の断簡。もとは、開結をそろえた十巻本であったと思われる。これは、その巻第一・方便品第二の偶の部分に当たる。漢文体で書かれる難解な仏典を、読みやすく、平仮名を使って書き下している。漢字や漢文の知識にうとい女性のために書かれたものであろうか。料紙は藍の雲紙。通行の写経どおり、金泥で界を引き、一行ほぼ17字詰めに書く。書風は後京極流。やや縦長の字形は整い、線は細めであるが、すこぶる穏やかである。手鑑「見ぬ世の友」にも、この連れの断簡で、同じく方便品のすこし先の部分が所収されている。ともに筆者を世尊寺行尹と伝えるが、その真跡と比較して、同筆とは認められない。


伝藤原行房


見ぬ世の友
見ぬ世の友 164 伝藤原行房筆 新古今集切 打曇紙本墨書 30.8×36.0 鎌倉
 「新古今和歌集」巻第四・秋歌上に収められる式子内親王の作。天地に藍・紫の雲形を大きく施した斐紙に、和歌一首が二つのブロックにそれぞれ雁行様に散らし書きされている。もとは巻子本であったと思われるが、この手鑑の付箋には行房卿とあるだけで、古筆切としての名称は記されていない。また「古筆名葉集」世尊寺殿行房卿(?−1337)の条にも、これに該当する断簡は記録されていない。文字は大らかに縦長の形で統一され、文字の大小・線の細太などの変化は美しいが、何といっても力強さに欠け、スケールは小さい。その料紙、書風から、鎌倉時代の書写と認められよう。


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 165 伝藤原行房筆 下野切 紙本墨書 15.8×13.8 鎌倉
 「拾遺和歌集」巻第五・賀部の断簡。下野切と呼ばれているが、その拠るところは判らない。「増補古筆名葉集」世尊寺殿行房卿の条に"六半、拾遺、哥二行書、朱書入アリ"という記載があるが、これに適合するものであろう。もとは桝形の小冊子本で、料紙は雁皮様の斐紙。一面八行書き、和歌一首二行書き。かなり行間をあけ、紙面いっぱいに書いているが、字粒は小さく扁平で、線は力強さに欠けている。随所に裏文字が見え、一紙両面書きの写本であったことを物語っており、また本文には朱の加筆も散在する。筆者は藤原行房といわれているが、その書風はやはり鎌倉期後半の写本と考えられる。

藻塩草 155(裏38) 拾遺和歌集巻第十断簡(下野切) 伝(世尊寺)行房筆 斐紙墨書 15.9×14.6 鎌倉時代
 拾遺和歌集巻第十神楽歌の断簡。『増補古筆名葉集』の世尊寺行房(?〜1356)の条に「六半、拾遺、哥二行書、朱書入アリ」とある。もとは小さい六半の升形冊子装、雁皮質の料紙に一面8行書、和歌一首2行書。その書風、料紙より鎌倉時代と認められる。

翰墨城 222 伝世尊寺行房 下野切
『増補古筆名葉集』に載せられる「六半 拾遺哥二行書朱書入アリ」とあるものに一致すると考えられる。内容は『拾遺和歌集』巻七・物名の一部で、間に朱書がある。手鑑「藻塩草」に一葉と、「見ぬ世の友」に一葉、まったく同筆の断簡が伝わっている。また、「見ぬ世の友」の一葉には「下野切」と題箋がある。三葉とも8行ずつ書写されたもので、現状から推して、もとは升型の冊子本であったと思われる。行房の筆跡とする確証はなにもないが、行房と同じころの鎌倉時代後期に書かれたものであろう。


翰墨城
翰墨城 221 伝世尊寺行房 往来物切
手紙の文例集を、手本として揮毫した巻物の断簡。世尊寺行房(1308−1335)は、始祖行成以来、代々宮廷書道の牛耳を執った世尊寺家第十一代の当主。この一葉は、たっぷりと豊潤な線、ゆったりとした構えの文字で、典型的な世尊寺流の書といえるが、行房の真跡とする根拠はなにもない。文中にみえる「春日祭」は、当時、2月と11月の上申日に行なわれた春日社の祭で、今日、3月13日を例祭日とする「申まつり」の前身。この「春日祭」に関する手紙文例は、『雲州消息』や『十二月往来』にも所収されている。


伝藤原行忠


見ぬ世の友

翰墨城
見ぬ世の友 166 伝藤原行忠筆 古今集切 紙本墨書 21.7×12.8 南北朝
 「古今和歌集」巻第九・羅旅歌の断簡だが、古筆切としての名称は明らかでない。「増補古筆名葉集」世尊寺殿行忠卿の条に、"中四半、古今、哥二行書"と記録されるものに相当しようか。もとは冊子本。雁皮質の斐紙に、たっぷりと墨のついた仮名が細かく忽卒の間に書かれている。藤原行尹の子・行忠(1312−1381)の筆跡と伝えられるが確証はない。書写年代は南北朝ころであろう。

翰墨城 229 伝世尊寺行忠 古今集切
『古今和歌集』巻第九・羈旅歌の断簡。『増補墓名葉集』の行忠の項に「中四半 古今哥二行書」とあるものに相当しよう。同じ伝称筆者名をもつ前図「淀切」は漢字なので、これとは比較しがたいが、同筆とは思われない。書風より南北朝時代を下らないものと思われる。


藻塩草

翰墨城
藻塩草 159(裏42) 沙門良見勧進状(淀切) 伝(世尊寺)行忠筆 金銀箔散打曇斐紙墨書 32.9×14.8 南北朝時代
 良見と呼ばれる僧侶の後仏光院造営に関する勧進状の巻頭部分の断簡。
『増補古筆名葉集』の世尊寺行忠(1312〜1381)の条に「淀切、勧進状、巻物、雲帋、金銀砂子ノゲ切箔アリ」とあるものに適合する。断簡の文中に見られる沙門良見、後仏光院について、勧進元良見は浄土宗系の僧と思われる。行忠筆と伝えるが、世尊寺流特有の書風でもないし、このような勧進状の場合、一応、良見の筆になるということも考えられる。もとは巻子装、雁皮質の天は藍、地は紫の雲紙に金銀の箔をおき、金銀の砂子、野毛を撒いて、美しい装飾料紙となっている.、それに書かれた楷書の書風や料紙などから、これは南北朝時代のものと認められる。手鑑『翰墨城』にも、同じ断簡と思われる二行分が所収されている..

翰墨城 228 伝世尊寺行忠 淀切
もとは巻子装。贋質の料紙の上に轍、下に紫の雲形を漕きこみ・金銀の箔や砂子、野毛撒いた美しい装飾料紙に一行11字程度の楷行書である。『増補古筆名葉集』の世尊寺行忠(1312−1381)の条に「淀切 勧進状巻物、雲帋金銀砂子ノゲ切箔アリ」とあるものに適合しよう。これは手鑑「藻塩草」所収の断簡とまったく同手であるところから、良見と呼ばれる僧侶の後仏光院造営に関する勧進状の断簡と考えられる。なお、「淀切」の名称については、山城の淀の地名を連想するばかりで、その由来は明らかでない。その書風は鎌倉時代後期のころのものと認められる。


伝藤原行俊


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 167 伝藤原行俊筆 長門切 紙本墨書 29.8×10.4 南北朝
「増補古筆名葉集」世尊寺殿行俊卿の条に、"平家切、巻物、平家物語、上下横卦アリ"という記載がある。「平家物語」を書写したものゆえ、平家切というのであろう。ところでこの長門切という名称は、源平の壇ノ浦合戦にちなむ命名と思われる。内容はやはり「平家物語」といわれるが、類似の文は「源平盛衰記」巻第二七・『源氏追討祈る事』の条にあって、「平家物語」の方には見当らない。料紙は斐紙。もとは巻子本と思われる。天地に淡墨で横罫を引き、漢字仮名まじり文が一行一七〜一八字、漢字は背の高い行書体、仮名は簡単な草仮名だけで書かれている。筆者を藤原行俊(行忠の子・や1鼠O刈)と伝えているが、確証はない。しかし、南北朝時代に書写されたものであろう。手鑑「翰墨城」「藻塩草」にも同じ長門切が収められているが、世間ではなかなか見当らぬ珍しい断簡である。

藻塩草 160(裏43) 平家物語断簡(長門切) 伝(世尊寺)行俊筆 楮紙墨書 30.0×11.2 南北朝時代
 平家物語上巻第五文覚被流の項の断簡。『増補古筆名葉集」の世尊寺行俊(?〜1407)の条に「平家切、巻物、平家物語、上下横罫アリ」とあるものに適合する。「長門切」の呼称の由来は長門本平家物語に関係あるのかもしれないが、現存の長門本平家物語とは、その字句が一致しない。もとは巻子装、楮質の料紙の上下に界線がある。その界高27.3p。この平家物語断簡は、手鑑『見ぬ世の友』にも、手鑑『翰墨城』にも収められているが、この「長門切」と全く同筆と認められる。

翰墨城 230 伝世尊寺行俊 長門切
斐紙の天地に淡墨の横罫を引き、その間に漢字 仮名まじりの文を整然と書写した、わずか5行の断簡。漢字は背の高い行書体、仮名は簡単な草仮名を多用し、小ぶりに書かれている。世に珍しい断簡で、手鑑「藻塩草」「見ぬ世の友」に同筆の紙片が収められるくらいだが、その付箋に「長門切」の名がみえる。
「長門切」の付箋には「世尊寺行俊卿」とあるのみ。世尊寺行俊(?−1407)は行忠の子、世尊寺家第十四代を継承した能書ではあるが、これを行俊筆とする確証はなにもない。しかし、鎌倉時代末期のころに書写されたものではあろう。「長門切」という名称は、長門国壇ノ浦における源平合戦にちなみ、別に付せられたものと思われる。