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   の比較-5

伝聖徳太子


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 118 伝聖徳太子筆 戸隠切(宝塔切) 雲母摺宝塔文様浅葱紙本墨書 30.1×5.2 平安
 「妙法蓮華経」巻第二・信解品第四の断簡、一行目と二・三行目の二枚の断簡を合わせたもので、前者は信解品の中ほど、後者は終りの四字一句の偶のところにあたる。「古筆名葉集」聖徳太子の条に"漢帋切、帋アサキ、白銀泥ノ宝塔一字ツツアリ、墨字一行八字"とあり、また「増補古筆名葉集」には"戸隠切、帋浅黄白、一字毎二雲母ニテ宝塔アリ、墨字一行八字"と記されるものである。信州戸隠神祉の神宮寺に伝来したので戸隠切といい、また経文一字ずつを宝塔文におさめて書写したものゆえ宝塔切ともいう。現在も戸隠神社に、法華経巻第一・二・四の零本四巻が伝えられており、古来聖徳太子(574−622)の筆跡と謳われ著名なもの。もとは巻子本。青味をおびたうす墨色の料紙に、各行毎に雲母で宝塔八基を押し、その中心に経文一字ずつを書き置いている。書は、細太の変化の著しい、独特のくせのある運筆で、字形はみな右に傾き、ゆがんだ行書体で書かれている。よほど筆管を傾けて書いたもののように思われる。料紙.書風に一種荘厳な特徴を有すること、また内容が法華経であることなどから、この筆者を聖徳太子に宛てたのであろう。しかし、一字宝塔・一字蓮台を含め、料紙に金銀をあしらったいわゆる装飾経というものは平安時代に盛行したものであり、戸隠切の書写年代もおそらく平安後期ごろと考えられる。藤原行成五世の孫・定信(1088−?)の書風に近いものがある。

藻塩草 118(裏1) 妙法蓮華経巻第四断簡(戸隠切)または(宝塔切) 伝聖徳太子筆 雲母摺宝塔文様浅葱楮紙墨書 28.6×3.8 平安時代後期
 妙法蓮華経巻第四法師品第十の断簡。『古筆名葉集』の聖徳太子(573〜621)の条に「漢帋切、帋アサキ、白銀泥ノ宝塔一字ツツアリ、墨字一行八字」とあり、また『増補古筆名葉集」にも「戸隠切、帋浅黄白、一字毎二雲母ニテ宝塔アリ、墨字一行八字」とあり、この切に適合する。もとは巻子装、薄墨色に染めた楮質の料紙に一行ごとに高さ3.6p、幅1.8pの塔影八基が雲母摺りされ、そのおのおのの塔心に経文が一字ずつ、一行8字に書写されている。もと信州戸隠の神宮寺に伝えられたので、「戸隠切」と呼ばれる。手鑑『翰墨城』に貼られている「戸隠切」は、この『藻塩草』貼押のものと同じ巻第四の断簡。また手鑑『見ぬ世の友』所収のものは、巻第二の断簡であるところから、そうとうはやい時期に、巷に散侠したものと考えられる。筆者を聖徳太子と伝えるが、この独特の習癖ある書風は、平安時代後期の藤原定信(1088〜1156)のそれに似たところがあり、料紙装飾などと合わせ考えるに、ほぼその頃に書写されたものであろう。この法華経と同じ手で、紺紙に書写されたものが世に散在するが、これらはすべて「戸隠類切」と呼ばれている。

翰墨城 155 伝聖徳太子 戸隠切
 「法華経」巻第四の授学・無学人記品第九の断簡。『古筆名葉集』の聖徳太子(574−622)の条に「漢帋切 帋アサギ 白銀泥ノ宝塔一字ヅツアリ 墨家一行八字」とあり、また『増補古筆名葉集』の「戸隠切 帋浅黄白 一字毎二雲母ニテ宝塔アリ 墨字一行八字」とあるのに該当する。もと信州 戸隠神社の神宮寺に伝来したところから「戸隠切」の呼称がある。現在もこの神社に四巻伝存している。青みをおびた薄墨色の料紙に、各行ごとに雲母で宝塔八基を押し、その中心に経文一字ずつを墨書している。その書は、細太の変化が著しく、筆管をよほど傾けて書いたためか、字形はみな右に傾き、独特の癖のある運筆を示している。筆者を古来、聖徳太子にあてているが、太子自筆といわれる「法華義疏」(御物)に比し明らかに別筆である。また、一字宝塔・一字蓮台の写経を含め、料紙に金銀をあしらったいわゆる装飾経は平安時代に盛行したものであって、太子の時代には合わない。料紙・書風に一種荘厳な趣を呈し、また、内容が「法華経」であるところから、仏教興隆に努力した太子にその筆者として当てたものと考えられる。今日では、藤原行成五世の孫 定信(1088−1156)の筆跡であることが明らかにされている。定信の多くの真跡遺品の筆跡とこの「戸隠切」の書風が一致する。その書には、野性的でスピーディーな個性美が発揮されている。


見ぬ世の友

見ぬ世の友 119 伝聖徳太子筆 法隆寺切 紺紙金泥書 28.4×5.4 平安〜鎌倉
 「妙法蓮華経」巻第二・讐喩品第三の断簡二枚(一行目と二・三行目)を合わせたもの。経文は前後が逆になっている。もとは巻子本で、紺紙に銀泥で界をひき、金泥で写経したもの。一行九字。今は見えないが、上下の字間がひらいており、やはりもとは宝塔文があったのであろう。書風は戸隠切とよく似た筆致であり、ために筆者を聖徳太子といい、太子ということで法隆寺切と名付けられたらしい。書写年代は平安末〜鎌倉初期の頃であろう。
 なお「増補古筆名葉集」聖徳太子の条に記される法隆寺切は、"生帋、墨字、朱ニテ一字毎ニ宝塔アリ、一行四字"とあって、この断簡とは別種のものである。古筆家では、一字宝塔経の断簡は、すべて聖徳太子の筆跡とし、法隆寺切・太秦切・宝塔切と命名したものと思われる。


翰墨城
翰墨城 156 伝聖徳太子 太秦切
「法華経」巻第二・讐喩品第三の断簡で、紺紙に銀泥で界を引き、金泥をもって経文を一行9字ずつ書写している。今はかろうじてその痕跡を知るだけだが、当初は銀泥で宝塔文を置いていたと思われる。この断簡は、『古筆名葉集』の聖徳太子の条の「太秦切 紺帋金字一行九字 一字ヅゝニ銀泥ニテ宝塔アリ 凡竪一尺一寸三ッ」に条件が一致する。しかし、現在「太秦切」の名称で伝わる経切は、一行10字〜11字のものであり、はっきりしない。手鑑「見ぬ世の友」には同じ切に「法隆寺切」の題箋を付している。『増補古筆名葉集』に記される法隆寺切は「生帋墨字朱ニテ一字毎ニ宝塔アリ 一行四字」であり、これと一致しない。古筆家では、「一字宝塔経」の断簡をすべて太子の筆跡として扱い、適当に「太秦切」「法隆寺切」「宝塔経切」の名をつけていたものと思われる。なお、この断簡の筆跡も、藤原定信の筆になるものに相違ない。


伝朝野魚養


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友120 伝朝野魚養筆 御室切 紙本墨書 26.0×12.6 奈良
  「大般若波羅蜜多経」の断簡で、「増補古筆名葉集」朝野宿禰魚養の条に"御室切、香帋墨字経"と記録されるものに相当する。今日、薬師寺その他に所蔵される大般若経と同類のもので、もと奈良元興寺十輪院の蔵経であったため、同寺の開祖朝野魚養(善覚大徳)の発願・書写になるものとして、世に"魚養経"と喧伝されるものである。魚養は弘法大師入唐前の筆道の師と伝えられ、その能書ぶりを謳われるが、この断簡はやはり写経生の手になったものであろう。もとは巻子本、料紙は黄麻紙。点画・結構ともに筆力強く、謹厳であり、豊かな量感をもっている。いわゆる天平経の、典型的な書風である。御室切という名は、この「大般若波羅蜜多経」の一部が、もと仁和寺に伝来したことに由来するのであろう。

藻塩草 119(裏2)〔写経断簡〕(御室切) 伝魚養筆 黄麻紙墨書 25.2×7.1 平安時代前期
 『古筆名葉集』の魚養(?〜延暦年間没)の条には「香帋、墨字経」とのみあり、『増補古筆名葉集」には「御室切、香帋、墨字経」とある。この経の内容についてはなお明らかにし難いが、もとは巻子本、黄麻紙に墨罫あり、界高23.2p、界幅2.3p、一行17字に書写されている。一般に魚養といえば薬師寺を思い浮かべるほど、伝魚養筆「薬師寺一切経」の断簡は世に広く散在し名高い。にもかかわらずこの一切経の断簡は、なぜか「薬師寺切」とはいわず「御室切」と伝称されてきた。この『藻塩草」所収の「御室切」は、料紙、書風よりみていわゆる「薬師寺一切経」の書風とは異なっており、その料紙よりみて平安時代初期に書写したものと考えられる。付属の目録に記載の通り、この切を「御室切」と呼ぶならば、二種類のものがあることとなり、呼称に一種、二種など何らかの区別を要する。

翰墨城 157 伝魚養 御室切
もと元興寺十輪院に伝わり、のち、薬師寺に移された「大般若経」の断簡。朝野魚養の書写と伝えられるため、「魚養経」と称され、また、その断簡は「御室切」と呼ばれる。実際には、十人以上の哥合書きだが、伝称筆者は、魚養一人になっている。『能書筆跡』には、「……相伝て云、魚養は弘法大師の筆道の師なりといへり。……尊円法親王記に、本朝は魚養が薬師寺の額を書、是能書を用る初なり、宇治拾遺に、比子おとなに成まゝ、手をめでたく書けり、魚にたすけられたりければ、魚養とぞつけたりける、七大寺の額共は是が書たる也けり、……」と記され、早くから能書として認められていたが、その真筆と断定できるものは、なにひとつ伝わらない。「御室切」は北魏の造像記を思わせる。右上がりの強い、文字構造が大きく、点画の力強い書風は、じつに堂々としており、いわゆる天平写経体と呼ばれているもの。奈良朝でも、初期の写経体に比べて、いくぶん文字が大きく、謹厳ではあるが運筆が自由で、まろやかな味わいがある。奈良時代の書。


伝橘逸勢


藻塩草
藻塩草 120(裏3) 春秋経伝集解第二十九哀公七年断簡(石山切) 伝橘逸勢筆 黄麻紙墨書 24.8×12.1 平安時代前期
 杜氏の春秋経伝集解(左氏伝)第二十九哀公七年の伝末部の断簡。『増補古筆名葉集』の橘逸勢(?〜842)の条に「石山切、儒書、香帋、墨字墨罫」とある。もとは巻子または折帖装、紙の縦はもと28.5p程度あったはずであるが、手鑑の編集のためか上下が切られ短くなっている。薄茶色の黄麻紙に墨罫あり、界高23.1p、界幅2.3〜2.5p、一行16字程度である。現在、滋賀県大津市の石山寺に伝存し、国宝に指定されている春秋経伝集解第二十六、第二十九残巻と全く同手のもののため、「石山切」と呼ばれる。筆者は明らかでないが、書風よりみて、平安時代の能書家が書写したものと考えられる。


翰墨城
翰墨城 158 伝橘逸勢 詩序切
詩集『王勃集』の序の断簡といわれているが、通行本にはみえない。王勃(649−676)は唐の詩人で、楊燗・盧照郷・駝賓王とともに「初唐の四傑」の一人にあげられる。これは唐の垂挨 永昌年間(685−689)の書写と推定されるもので、その書風には、欧陽詢の影響が現われている。これとは別に、正倉院御物に「王勃詩序」の残巻が伝わり、巻末に「慶雲4年(707)7月26日 用紙弐拾玖帳」の奥書が書かれている。奈良時代の真跡としては、外典(仏教で、仏教教典以外の書籍)を書写したものは珍しく、わが国現存最古の遺品である。この断簡は唐代の書写本で、正倉院御物よりもさらに時代が古く、たいへんに珍しい貴重なものである。料紙には、薄墨の界が施され、写経のように一行15字平均で、きわめて謹厳に書写している。筆者を橘逸勢(?−842)と極めるが、むろん根拠はなく、あくまでも伝称の域を出ない。


伝小野篁


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 121 伝小野篁筆 山門切 紙本墨書 27.9×8.2 平安
 「古筆名葉集」小野篁の条に"黄帋墨字経"とあり、「増補古筆名葉集」に"山門切、香帋墨字経"と記されるもの。唐太宗御撰の「大唐三蔵聖教序」を書いたものであるが、この序は「大般若経」巻第一の巻頭に置かれており、これもその一部にあたる断簡と思われる。もとは巻子本。黄麻紙に淡墨で細く界をひき、一行15〜16字に書いている。用筆のすなおな、平明な書風で、平安時代に書かれたものであろう。小野篁(802−852)の筆跡と伝えられるが、何ら確証はない。細身の線、一つ一つの文字の構造、全体に漂う雰囲気などは、あたかも唐の?遂良の「雁塔聖教序」を臨書したかのように思わしめるものがある。山門切という名の由来は不明だが、天台系の寺院に伝来したものででもあろうか。

藻塩草 121(裏4) 広弘明集巻第二十二難范績神滅論断簡(山門切) 伝小野篁筆 黄麻紙墨書 28.0×6.2 平安時代前期
 南斉の沈約の難萢績神滅論の部分の断簡。『古筆名葉集』の小野篁(802〜852)の条には「黄帋、墨字経」とのみあり、また『増補古筆名葉集』には「山門切、香帋、墨字経」とある。
手鑑『見ぬ世の友』所収の「山門切」が三蔵聖教序であることなどから、唐の道宣撰広弘明集巻第二十二所収のものと考えられる。もとは巻子または折帖装、黄麻紙に墨罫あり、界高2.6p、界幅2.1p、一行16〜17字程度で書写されている。「山門切」の呼称の由来は明らかでないが、天台系の寺院からこの経が出たためにそう呼ばれているのであろう。小野篁筆との根拠はないが、書風等より時代はほぼその頃のものであろう。手鑑『翰墨城」に貼押のものもこの『藻塩草』本と同じく、「広弘明集第二十二」、沈約の績神滅論の部分の断簡である。また手鑑『見ぬ世の友』所収の「山門切」は三蔵聖教序である。

翰墨城 159 伝小野篁 山門切
『広弘明集』巻第二十二所収の沈約の「難萢績神滅論」の部分の断簡。『古筆名葉集』の小野篁(802−852)の条には「黄帋墨字経」とのみあり、また、『増補古筆名葉集』に、「山門切 香帋墨字経」とあるものに適合する。もとは巻子または折本装。黄麻紙に墨罫あり、界高21.6センチ、界幅2.1センチ、一行17字程度で書写されている。「山門切」の呼称は不明ながら、おそらくは山門と呼ばれた比叡山延暦寺に伝来したためであろうか。その書風より推して、平安時代初期のものと考えられる。


伝菅原道真


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 122 伝菅原道真筆 河内切 紫紙金泥書 26.3×9.3 奈良
 「紫紙金字金光明最勝王経」の断簡。もとは巻子本、銀泥で界をひいている。現在まとまったものとしては、高野山龍光院に10巻、奈良国立博物館に10巻あり、その他は諸家に分蔵されている。この写経は、菅原道真(845−903)が元慶8年(884)道明寺で五部の大乗経を群写したと伝えられるため道真の筆跡となっているが、書写年代は奈良時代にさかのぼるものである。一点一画もゆるがせにしない、筆力充実した謹厳な書きぶりで、文字は実に整斉たるものがある。写経所の中でも、とくに金字経所において優秀な写経生が書いたものであろう。「古筆名葉集」聖廟の条にはただ"紫紙金字経"とあり、「増補古筆名葉集」にいたり"紫切、紫帋金字、最勝王経法華経等アリ、河内切又北野切、筑紫切ト云フ、都而紫切ト唱フ"と記されている。料紙の古代紫を珍重してすべて紫切というが、菅家ゆかりの寺・河内の道明寺に伝えられたので河内切、また道真(天神)との連想により北野切・筑紫切とも呼ばれている。

藻塩草 122(裏5) 金光明最勝王経巻第八巻末断簡(河内切) 伝菅家(菅原道真)筆 紫楮紙金字書 25.7×12.2 奈良時代
 金光明最勝王経巻第八の巻末部分の断簡。『古筆名葉集』の聖廟(菅原道真)(845〜903)の条に「紫地金字経」とのみあり、『増補古筆名葉集』に至って「紫切、紫帋、金字最勝王経法華経等アリ、河内切又北野切、筑紫切ト云、都而紫切ト唱フ」と記している。もとは巻子装、楮質の紫紙に金罫あり、その界高19.5p、界幅2.1p、それに金泥で一行17字に書写されている。この紫紙金字経は、東大寺二月堂の焼経とともに、書写された時期は菅公よりさかのぼり、奈良時代のものと認められ、代表的荘厳経として名高い。

翰墨城 160 伝菅原道真 河内切
「金光明最勝王経」の断簡。『古筆名葉集』の聖廟(菅原道真)(845−903)の項に「紫地金写経」とのみあり、『増補古筆名集』に至って「紫帋、金字最勝王経華経等アリ、河内切又北野切、筑紫切ト云都而紫切ト唱フ」と記している。もとは巻子装、楮質の紫紙に墨罫あり、その界高19.5センチ、界幅2.1センチ。それに金泥で、一行17字に謹厳な書体で書写されている。この紫紙金字経は、東大寺二月堂の焼経とともに、書写された時期は菅原道真の時代よりはるかにさかのぼり、奈良時代のものと認められ、代表的荘厳経として名高い。


藻塩草
藻塩草 124(裏7) 〔仏書断簡〕(式切) 伝菅家(菅原道真)筆 斐紙墨書 24.1×16.5 平安時代後期
 『古筆名葉集』の聖廟(菅原道真)の条に「式ノ切、白帋、墨書朱点アリ、法会ノ式文也」とあるが、これは誰の深密儀軌より抄写したものか、なお後考を要する。もとは六半の綴葉装と考えられる。楮まじりの雁皮質の料紙に墨罫あり、その界高4.2p、界幅2.3p、所々朱点がある。「式切」の名称は、内容を法会の式文とみなしたためであろう。筆者を菅原道真と伝えるが、書風、料紙等よりみて時期は下るものと考えられる。


翰墨城
翰墨城 161 伝菅原道真 二月堂焼切
紺紙に銀泥をもって書写した「大方広仏華厳経」の断簡。銀泥界、一行17字詰め。直線的な鋭い線、一点一画に力をこめた、筆力充実した謹厳な書きぶりである。筆者を「天満宮」すなわち菅原道真と伝えているが、書写年代は奈良朝の天平期にさかのぼるもの。古記によると天平16年(744)10月、聖武天皇の勅により東大寺において初めて華厳経会が行なわれたというが、この経はその直後、おそらく写経所の中でもとくに金字経所において、優秀な写経生によって書写されたものであろう。東大寺二月堂に伝来したが、寛文7年(1667)2月14日に二月堂が炎上、料紙の天地を焼失してしまった。ためにこれを「二月堂焼経」といい、この類切をすべて「二月堂焼切」と称している。東大寺に二巻現存、他は断簡として諸所に分蔵されている。


翰墨城
翰墨城 162 伝菅原道真 仏書切
背丈の低い斐紙に大ぶりに7字を書いた、わずか一行の断簡。料紙の天に横界二本、地に横界一本が墨で引かれている。これは普通の写経ではなく、内容は不明。筆者は付箋に「天満宮」とある。むろん、道真自筆とする根拠はなにもないが、その書風は上代様の趣をもっており、平安後期の書写になるものと思われる。菅原道真は、元慶8年(884)道明寺において五部の「大乗経」を書写したと伝えられ、また後世、「天満宮大自在天神」と崇敬されたため、古筆家は、特殊な写経・仏書の類の筆者によく道真をあてたようである。あるいは、「二十五三昧式」の断片か。『古筆名葉集』聖廟(菅原道真)の条に記される四種のうち、「式切」に類似しているため、これも道真の書に擬せられたものであろう。


翰墨城
翰墨城 163伝菅原道真 仏書切
背の低いわずか一行の断簡。料紙の天に墨の横界二本、地に横界一本が引かれ、その間に行書体の漢字10字が書かれているにすぎず、随所に朱点が付されている。「右手に?を把り、直に竪て……云々」の文意からするとこれは、『古筆名葉集』聖廟の条に、「式切 白帋、墨卦、朱星アリ、不動講式、行書」と記録されるものに相当するものであろうか。不動講式とは不動明王の功徳を讃え、節をつけて読んだ、一種の声明のようなもの。不動講式の断簡ゆえ、これを「式切」と呼んだものであろう。


翰墨城

翰墨城
翰墨城 164 165 伝菅原道真 白氏文集切
『白氏文集』巻第四・新楽府の第二首めの「百錬鏡」。二葉で一編の完全な詩を成している。新楽府の巻頭は「驪宮高」で、この切は陽明文庫所蔵の「驪宮高」に接続する。それには左端に継ぎ目があり、もとは紙幅50センチ前後の紙を長く継いだ『白氏文集』巻第四の一巻の巻物であったことが推定される。巻子本として長く愛蔵され、限りなく巻舒(巻くこととひきのばすこと)がくり返されたらしく、巻頭が手ずれのために毛羽立っている。料紙は、楮紙の素紙で、墨付きが非常によい。その書は、書法の根底に王義之を踏まえた、練達の能書の手に成るもので、格調の高い、堂々とした筆の流れは、みる者を威圧する。筆者は、天満宮、すなわち菅原道真と極められている。しかし、残念ながら菅原道真の真筆と確認できるものは伝存しない。この二葉は、書風からみて、11世紀初頭の書写と考えられる。


伝紀貫之


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 123 伝紀貫之筆 高野切 雲母箔散紙本墨書 26.3×14.5 平安
 「古今和歌集」巻第一九・誹譜歌の断簡で、第一〇三二・三番の歌に該当する。もとは巻子本で、雁皮質の料紙に細かな雲母箔をいちめんにまき散らしている。高野切という名称は、もと高野山に伝来したことに起因する。即ち、高野山の文殊院興山上人(木食応其・1536−1608)が、豊臣秀吉より古今集巻第九・罵旅歌の巻を拝領し、寺の什宝として伝えたが、やがて寛文年間に分割流出したのでこの名がある。今日では、巻子本として伝わるものもすべて高野切と呼びなじんでいる。この高野切本古今集は三人の寄合書とみえて、三通りの書風に分けることができる。ふつう、第一種(巻第一・九・二〇)、第二種(巻第二・三・五・八)、第三種(巻第一八・一九)と呼んでいるが、この断簡は第三種の書風である。線は繊細流麗で、筆はよく錬達しており、連綿遊糸の美しさを誇っている。また平明な格調、知性の高さを示している。近年、第二種の筆者は源兼行(11世紀初め)であると実証されるにいたったが、第一・三種は未だ筆者を詳らかにしえない。昔から高野切本古今集は、第一・二・三種ともすべて紀貫之(884−946)の筆跡ということになっているのだが、その書写年代は、もう少し後の11世紀中頃と考えられよう。

藻塩草 125(裏8) 古今和歌集巻第二断簡(高野切) 伝紀貫之筆 雲母箔散斐紙墨書 26.2×10.7 平安時代後期
 古今和歌集巻第二春歌下の断簡。『古筆名葉集』の紀貫之(884〜946)の条に「高野切、キラゝ地白帋、哥二行書」とあり、また『増補古筆名葉集』には「高野切、巻物、四半形、古今、哥二行書、キラゝノ砂子アリ、自詠名アリノ処モアリ、殊ニ賞スベシ」とある。もとは巻子装、雁皮質の料紙に、雲母箔が撒いてある。和歌は一首二行書、五行分の断簡である。書風より「高野切」第二種と認められる。「高野切」という呼称の由来は、豊臣秀吉が高野山の文殊院興山上人に、古今和歌集巻第九羅旅歌を与えたが、それが分割流出してから、この手の古今和歌集はみなかく呼ばれるようになったという。高野切古今和歌集は、現存する仮名資料中最高の名蹟としてあまねく知られているが、中でもこの第二種の筆致は重厚で迫力があり、男性的な美しさに富み高い格調を示す。
筆者、製作年代ともにまだ確証をえないが、天喜元年(1053)落慶の平等院鳳鳳堂内の扉絵色紙形の文字が、源兼行筆と認められ、これが、「高野切」第二種一群の書風と相通ずることなどによって、「高野切」第二種の筆者を、源兼行とする説が有力である。もしこの説に従えば、「高野切」第二種の書写されたのは、兼行が48歳、永承3年(1048)頃と思われる。この第二種と同筆と思われるものに、桂宮本万葉集、雲紙巻子本和漢朗詠集、関戸家本色紙巻子本和漢朗詠集、前田家本伝公任筆北山抄巻第三などがある。

翰墨城 166 伝紀貫之 高野切
『古今和歌集』巻第九・羈旅歌の断簡で、もとは巻子本。本紙は白麻紙で、一面に雲母砂子を散りばめ、視角によって光り輝いてみえる。他に類がない珍稀な料紙。その書は緩やかな筆で淡々と運び、繊細な感覚を駆使しながら、墨継ぎにも心を配り、優麗典雅な連綿体を生み出している。
書風を異にする三種いずれも貫之の筆とすること自体矛盾する。今日の研究で、第二種の筆者のみ、平安中期の源兼行と判明し、これを手がかりに、「高野切」本の書写年代を、およそ11世紀中ごろに推定することが可能となった。なお、「高野切」の名称は、現存する巻第九の巻頭「天の原云々」を含む断簡17行を、もと高野山文殊院の木食応其が豊臣秀吉から伝領愛蔵したことにちなむものという。


翰墨城
翰墨城 167 伝紀貫之 名家家集切
「名家家集切」は、『古今和歌集』が撰進された10世紀初めころに活躍した名だたる歌人の家集の断簡。このうち、秩父宮家に伝来する「堤中納言集」は、もと冊子本を巻子本に改装したもので、藍・紫の大柄の飛び雲を配した美しい料紙を用いる。今日、「平等院鳳風堂色紙形」の筆者 源兼行を「高野切」(第二種)・「桂万葉集」(御物)・「関戸本朗詠集」など一群の作品の筆者に当てるのが定説である。当代屈指の能書として鳴った兼行の書風は、当然、流行をみたことであろう。この「名家家集切」も、その影響下にあったものと考えられ、したがって、書写年代も兼行の活躍した11世紀中ごろ、ないしは、それより少し下ったころであろう。


伝小野道風


見ぬ世の友
見ぬ世の友 124 伝小野道風筆 愛知切 金砂子散丁子吹紙本墨書 25.8×9.4 平安
 「観普賢経」の断簡。「増補古筆名葉集」小野道風朝臣の条に"愛知切、丁子吹、更紗地金砂子交り、経一行十七字"とあるものに適合するが、愛知切という名称の由来は明らかでない。もとは巻子本。丁子吹きの斐紙に金の砂子をあらく撒き、金泥で細く界をひいている。字形は背を低くして小さいが、よく整っており、一点一画の筆の運びは柔らかく、しかもよく暢達している。平安時代特有の料紙に書かれた、温雅な和様の写経体である。
 筆者を小野道風(894−966)と伝えているが、道風自筆の屏風土代(御物)・円珍字諡号勅書(国宝)などに比べると、明らかに別筆である。同じ道風の筆跡と伝える国宝の法華経(浅草寺)や無量義経・観普賢経(根津美術館)に、料紙・書風が近似した写経ゆえ、古くから筆者を小野道風に宛てたもののようである。おそらく、平安末期に書写されたものであろう。


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 125 伝小野道風筆 本阿弥切 雲母箔摺文様胡粉地紙本墨書 16.5×11.7 平安
 「古筆名葉集」小野道風朝臣の条に"本阿弥切、六半唐帋地、浅黄白、古今集"とあり、「増補古筆名葉集」には"本阿弥切、小四半、古今、哥二行書、カラ帋地、浅黄白"と記されるものである。これは「古今和歌集」巻第一八・雑歌下の断簡で、第九九八・九九九番の歌二首に該当する。かつて桃山期の本阿弥光悦が巻第一〇と巻第一一の一部を珍蔵愛玩していたので、同類のものをすべて本阿弥切と呼んでいるが、もとは天地の低い小巻子本。料紙は舶載の唐紙で、白・藍・茶などの胡粉地に、雲・唐草・笹など種々の文様が雲母摺してある。この断簡は、紙面の胡粉が?落して、図や文字が不鮮明になっている。書はかなり早書きであったと思われ、筆は緩急自在・抑揚の変化に富み、使転の妙を発揮している。散らし書き、連綿の美しさは群をぬいており、洗練された妙境に達しているといえよう。筆者は小野道風といわれるが、現存する道風の真蹟は漢字作品のみであり、実証する手がかりはない。書写年代はもう少し下るものであろう。ともあれ、古筆切の中でもとくに名物ものとして、古来愛玩珍重されるものである。
 本阿弥切は古今集の写本としては異本の類で、かなりの異同がある。この切の"あしたつの……云々"の歌はふつう大江千里の作とされ、ふちはらのかちおんは"人しれす……云々"の歌の作者として、その歌の前に名がおかれている。

藻塩草 127(裏10) 古今和歌集巻第十八断簡(本阿弥切) 伝小野道風筆 雲母箔摺文様胡粉地楮カラ紙墨書 16.7×11.9 平安時代後期
 古今和歌集巻第十八雑歌下の断簡。『古筆名葉集』の小野道風(896〜966)の条に「本阿弥切、六半唐帋地、浅黄白、古今集」とあり、『増補古筆名葉集』には「小四半、古今、哥二行書、カラ帋、地浅黄白」とある。もとは小形の巻子装、楮質のカラ紙料紙には、白または藍等の胡粉地に、唐草、笹など種々の文様が雲母摺りしてある。この『藻塩草』所収のものは白胡粉地で、剥落が著しくよく見えないが白雲母の摺り文様がある。「本阿弥切」という呼称の由来は、本阿弥光悦が愛蔵していたためと伝えるが確証はない。古今集の写本としては異同が多くいわゆる異本で、奏覧本の系統ではない。筆者はよくわからないが、関戸家本古今和歌集などとはまた違った個性味にあふれた書風を示すもので、時代は平安時代中期を下らぬものであろう。文字の形が丸味をおびているのが特徴である。その余白のとり方、散らし書きの連綿には見るべきものがあり、古来小野道風の筆蹟と推定され、料紙の美しさとあいまって「名物切第一の切なり」(謳海十一)といわれ、美術品として特に尊重、愛好されてきた。光悦の書にもこういった古筆の修練が基礎にあると考えられ、注目すべき切である。手鑑『見ぬ世の友』所収の「本阿弥切」も巻第十八の断簡である。

翰墨城 170 伝小野道風 本阿弥切
『古今和歌集』の断簡。布目打ちの紙に、白の具引きを施し、さらに爽竹桃の型文様を雲母で刷り出した、舶載の唐紙に書かれる。「本阿弥切」は、各一巻の料紙を同色・同種の文様で統一するのが特色で、このほかに、繧地雲鶴文・茶地小花菱文・白地唐草文などの巻々がある。同種の唐紙が、「粘葉本和漢朗詠集」「本願寺本三十六人家集」「元永本古今集」などにもみられるが、「本阿弥切」と同筆の古筆は発見されていない。天地17センチの愛らしい小巻ながら、その書風は力強く、弾力のある筆遣いは、美しくリズミカルな連綿を形成する。名称は本阿弥光悦の愛蔵にちなむ。11世紀後半の作品。


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 126 伝小野道風筆 小嶋切 雲母箔散飛雲紙本墨書 22.1×13.5 平安
 斎宮女御徽子女王の家集を書いた断簡で、江戸初期の小嶋宗真(本阿弥光悦の弟子)が愛蔵していたので小嶋切という。「増補古筆名葉集」小野道風朝臣の条には、"小島切、四半、哥仙家集ノ哥、二行書、キララ砂子帋"と記載されている。もとは冊子本。料紙は藍と紫の飛雲をあしらった斐紙で、紙の両面に雲母の砂子を撒いている。この断簡は一面九行書き、和歌一首は二行書き、少しく左右が切りおとされている。面相筆のような長鋒の筆を用いたらしく、線は細く流麗で清い筆致であり、搦々として変化に富んだ連綿の美しさをみせ、奔放自在に筆を運んでいる。
 筆者を小野道風と伝えるが、何ら根拠のないことである。道風は康保3年(966)73歳で没しているが、斎宮女御(929−985)はそれより後の人であるから、年代的な条件からしても可能性はまったく無い。この家集は女御の没後に編集されたとみるべきであり、この切の料紙・書風からしても、11世紀中頃の書写になるものと考えられる。

藻塩草 126(裏9) 徽子女王家集(斎宮女御集)断簡(小島切) 伝小野道風筆 雲母箔散飛雲斐紙墨書 22.3×15.4 平安時代後期
 村上天皇の女御徽子女王家集の断簡。『増補古筆名葉集』の小野道風(896〜966)の条に「小島切、四半、哥仙家集ノ哥二行書、キラゝ砂子帋」とある。もとは四半の綴葉装、雁皮質の飛雲料紙に、雲母箔が一面に撒いてある。一面は九行書、和歌一首二行書。この家集は江戸時代初期の茶人小嶋宗真が愛蔵していたため、この名があると伝えられるが確証はない。家集中、敬語が多いことなどから、女御没(985)以後の編集にかかるもので、書風、料紙などから推察して、11世紀中頃の書写になるものであろうと考えられている。道風筆と伝えるが、徽子女王は道風の没後20年に亡くなっているので、道風には関係ない。その書風は遊綜連綿として一見女性的であるが、繊細な中にも非常に弾力ある運筆は、筆者の修練のほどを思わせる。

翰墨城 169 伝小野道風 小島切
『増補古筆名葉集』の小野道風朝臣の項に、「小島切 四半哥仙家ノ哥二行書キラゝ砂子帋」とあり、『古筆名葉集』に「四半切 飛雲青紫漢砂子」とある。「哥仙家ノ哥」とあるが、これは「斎宮女御集」である。斎宮女御(929−985)とは、村上天皇の女御徽子をさす。この家集は、女御への敬語の使用などから、徽子の没後の成立と考えられる。したがって、道風の筆写とは考えられない。書風は、「本阿弥切」や「本願寺本三十六人家集」の「躬恒集」などに近く、11世紀中期以降の書写であろう。料紙は、藍や紫の飛び雲のある雲母砂子を撒いたものである。原形は、加賀前田家伝来の一帖などから、四半の粘葉装の冊子本であったことがわかる。切の名は、本阿弥光悦門下で茶人でもあった小島宗真(1580−1655)の所有にちなむもの。


翰墨城
翰墨城 168 伝小野道風 写経切,
小野道風(894−966)は小野篁の孫で、葛絃の子である。若いときから能書として評判が高く、藤原行成・藤原佐理ととも「三跡」と呼ばれている。この断簡は書風が和様化した写経体であるため、道風にあてたものであろう。平安時代中期の書写で、類品の少ない装飾経として珍稀な断簡である。


翰墨城
翰墨城 171 伝小野道風 絹地切
緑がかった薄茶色を呈した一葉。もとは、美しい緑色の染め絹であったと思われる。娩麗豊満な行草体で三行に書かれた詩句は、『三体詩』巻第二に収められる唐の人許渾の七言律詩「咸陽城東楼」の後半部に該当する。『三体詩』(六巻)は、南宋の淳祐10年(1250)周弼の撰で、唐人の七言絶句・七言律詩・五言律詩を集めたもの。「古筆手鑑」に貼られた「題成陽城東楼 一上高城万里愁……」という一葉(六行)は、この詩の前半部にあたる。こちらは藤原佐理の筆跡と極められているが、両者が元、ひと続きであったことは一目瞭然。道風の筆に擬定される『白氏文集』の一連の断簡と同種の書風で、10世紀後半の遺品。したがって、『三体詩』以前に、この七律を所収した詩集を書写したものの断簡ということになる。


伝藤原佐理


見ぬ世の友

翰墨城
見ぬ世の友 127 伝藤原佐理筆 筋切 通し文様銀砂子散紙本墨書 20.6×12.7 平安
 伝藤原佐理筆の筋切と通切は、もとは同じ冊子の断簡であるが、料紙の表裏の特色によりそれぞれ筋切・通切と命名されたもので、その書はまったく同筆のもので、「増補古筆名葉集」参議佐理卿の条にも、"筋切、巻物、四半形、古今、哥二行書、飛雲、砂子、帋立ニ銀ニテ筋アリ、通シ切スジキレ元同品ナリ、帋ノ模様ニヨリテ名ツクナリ、故ニ通シ目スジ目トツギ合ノ処モアルナリ"と記録されている。
 「古今和歌集」巻第一二・恋歌二の断簡で、第六〇〇〜六〇二番の歌に該当する。もとは粘葉装の冊子本で、上巻一帖は愛知・関戸家に現存する。料紙は白・紫・茶・萌黄などのつけ染をした斐紙で、飛雲・羅文を置いた紙をも混用している。この断簡は赤茶地の紙に銀泥の太い罫三本があり、銀砂子がいちめんに撒かれている。当時歌合の歌を列記するには、天に三本・中間に一本・地に一本の横罫をひいた料紙を用いる習慣であったが、この歌合の料紙を横転して冊子本の料紙として用いたので、罫や紋様などすべてが横になっている。そして、料紙の表の方は銀泥の縦罫があるところから筋切と呼び、裏面の方は篩(とおし・ふるいのこと)の網目の紋様が出ているため通切と呼んでいる。書風は、いささか側筆に構え、自由自在に筆を運んだ趣をよく示している。筆者は、三跡の一人、藤原佐理(944−998)と伝えられるが、もとより信ずべきものではない。書写年代はもう少し下るものであろう。最近では、藤原定実を筆者とする説も行われている。

翰墨城 175 伝藤原佐理 筋切
これは、『古今和歌集』巻第十七・雑歌上の断簡。もとは、全二十巻を上・下二冊に書写した粘葉装の冊子本であったろう。『増補古筆名葉集』の藤原佐理の条に掲げる、「筋切 巻物四半形古今哥ニ行書 飛雲砂子帋立ニ銀ニテ筋アリ 通シ切スジキレ元同品ナリ 帋ノ模様ニヨリテ名ヅクナリ 故ニ通シ目スジ目トツギ合ノ処ニアルナリ」とあるものに相当する。料紙は、鳥の子の白・紫・茶・縹(青)のつけ染紙を交用し、その上に、藍・紫の飛び雲を漉きこみ、金銀の揉み箔を散らしたものが多い。細かく縮れた小波文様が表わされた、羅紋の料紙も使用しており、きわめて珍しい遺例で、貴重である。銀泥で引いた一本の縦罫がみられるが、当時一般に歌合の清書用料紙を縦に使用したためで、「筋切」の名称もここに起因する。裏面にあたる料紙は、篩(ふるい)の網目の文様があるところから「通切」と呼ばれている。つまり、「筋切」と「通切」は表裏一体を成している。筆者を藤原佐理と伝えるが、佐理の真筆と比較して、明らかに別筆である。今日では、「元永本古今集」「下絵拾遺抄切」「巻子本古今集切」「本願寺本三十六人家集」などの一群の筆者とされる、行成の曾孫 藤原定実の筆と推定されている。


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 128 伝藤原佐理筆 通切 通し文様銀砂子散紙本墨書 21.6×14.9 平安
 この断簡は通切ということになっているが、篩のような布目のあるところは第一行目だけで、二行目以下は銀罫の入った筋切である。古筆家が『通シ目スジ目トツギ合ノ処モアルナリ』と記すものに、まさに適合している。これは、「古今和歌集」巻第一七・雑歌上に所収の第八七四番(としゆきの朝臣)の歌の詞書きにあたる断簡である。筋切の部分は、緑地の料紙である。随分と古様の草仮名を駆使しており、この筆者は、大いに楽しみながら美しい料紙に筆を走らせたことであろう。通切は、「古筆名葉集」参議佐理卿の条には"通シ切、四半、香薄色帋、アラキ布目アリ、哥一首二行書、古今集"とあり、「増補古筆名葉集」には"通シ切、巻物、四半形、古今、哥二行書、継合帋、香ウス色浅黄等アリ、通シ目ノ形アリ、金銀砂子少シアリ"と記録されている。

藻塩草 131(裏14) 古今和歌集巻第十五断簡(通し切) 伝参議(藤原)佐理筆 通し文様染斐紙墨書 21.6×13.2 平安時代後期
 古今和歌集巻第十五恋歌二首と巻第十八雑歌下一首との断簡。『古筆名葉集』の参議佐理(944〜998)の条に「通シ切、四半、香薄色帋、アラキ布目アリ、哥一首二行書、古今集」とある。この古今和歌集は、もと上下二冊の粘葉装の本に書写されていたものである。この料紙は雁皮質の染紙で色は二、三種ある。もとは歌合に用いるための料紙を横にして用いたものらしく、表には銀泥の界線が縦にあるところから、このほうを「筋切」と呼び、裏面には節の目に似た布目が出ているところから「通し切」と呼んでいる。したがってこの「筋切」と「通し切」は同筆で、表裏の関係をなしている。一面10行書、和歌一首2行書。この筋切」と同筆と認められるものに、伝源俊頼筆「元永本古今集」、「巻子本古今集切」、「下絵拾遺集切」、「後撰集切」、西本願寺本三十六人家集のうち「貫之集上」、「人麿集(室町切)」などがある。「元永本古今集」は元永3年(1120)に書写されたもので、これと同筆であるところから筆者を藤原定実と推定する向きもあるが、定説をえていない。書風は「高野切」第一種に近い。


翰墨城
翰墨城 172 伝藤原佐理 絹地切
藤原佐理(944−998)と小野道風の二人は、今日伝えられる、「絹地切」「綾地切」と称する古筆の筆者に当てられることが多い。そして、その内容の大方が『白氏文集』の一部である。この断簡も、佐理の筆跡に当てられるが、その出典が不明である。ただし、文中の「華佗」は『後漢書』、また『魏志』の「華佗伝」にある華佗という名の後漢の名医のことと思われる。したがって、華佗の伝説を例に出した病に関する詩の一説であろう。書風からして佐理を筆者と当てているのは妥当であるが、真跡かどうかは不明。が、同時代の能書家の手になったものであることは疑いない。絹地の上を、自由に動く筆致は、非常にみごとなもので、平安時代中期遺品として貴重な断簡である。


翰墨城
翰墨城 173 伝藤原佐理 紙撚切
『源道済集』の断簡で、もとは冊子本。料紙は、色紙・打曇・飛び雲紙・素紙を混用しており、これは藍漉き紙に金・銀の砂子を撒いている。『増補古筆名葉集』の「四半 浅黄帋金砂子少アリ、哥二行書、哥仙家集カ未詳」にあたるもの。文字の転折がよじれており、それが紙撚(こより)を想起させるところからこの名がある。おそらく穂先のきく剛毛の長鋒を用いたために、この特異な書風を生んだと思われる。筆者を佐理と伝えるが、さらに下って11世紀後半の書写と推定される。


翰墨城
翰墨城 174 伝藤原佐理 綾地切
藤原佐理の筆と伝えるこの断簡は、綾地の裂の巻物に書いたものであるが、別に絹本の巻子本に『白氏文集』を書写したものが何点か現存している。これもその一連で、『白氏文集』巻五十七「池上即事」と題する七言律詩の部分。筆者を佐理としているが、現在、彼の真跡と確認されている「詩懐紙」「恩命帖」「離洛帖」「国申文帖」などの書状類と比較してみると、両者は、きわめて相似た書風を示してはいるが、彼の自筆と断定することはできない。しかし、佐理の活躍した平安時代中期の書写であることは明らかである。当然のことながら、小野道風・藤原行成と佐理を含めた三跡をはじめとする当代の書の土壌となった王義之ら中国書法の影響が、この2行14文字にも十分に現われている。わずか2行の断簡ながら、ここには明らかに、王義之の書法が日本化され、和様書道として確立した姿を、まざまざとみることができる。


伝藤原行成


見ぬ世の友
見ぬ世の友 130 伝藤原行成筆 堺切 銀砂子散紙本墨書 25.2×16.1 平安
 堺切は「和漢朗詠集」巻上春・雨部の断簡で、堺の某氏旧蔵ということでこの名をつけたものであろうか。もとは巻子本。白地の斐紙に天地に墨で横罫をひき、銀砂子をあらく撒いている。摘句は七言二句一行書き、和歌一首は二行に書いている。漢字は、点画に力強さはないが、字形は整斉にして平明温雅な風である。また仮名の線は、筆がよく暢達している。藤原行成(972−1027)の筆跡と伝えているが、何の確証もない。書写年代はもう少し下るであろう。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 131 伝藤原行成筆 式部切(和泉式部続集切)紙本墨書 20.2×18.6 平安
 「和泉式部続集」下巻の断簡で、古筆家の付箋には式部切と書かれているが、ふつう和泉式部続集切と呼ばれるもの。「増補古筆名葉集」権大納言行成卿の条に、"四半、和泉式部家集、哥二行書、虫喰多シ"と記載されるものに相当しよう。もとは冊子本で、この断簡は白地の斐紙。三・四行目の中間に折れ筋があり、左右相称の虫喰いの跡が見えるので、ちょうど胡蝶装の内側の見開き部分と思われる。一面七行書き、和歌一首は二行書き。クルクルと筆を回転し、かなりの早書きであるが、筆意は息が長く、よく暢達している。線は細いが、筆の跡が鮮やかに映えた歌切で、筆者を藤原行成というが、もとより根拠のないことである。


藻塩草
藻塩草 132(裏15) 和漢朗詠集巻下断簡(法輪寺切) 伝(藤原)行成筆 飛雲羅文染斐紙墨書 27.3×15.7 平安時代後期
 和漢朗詠集巻下雑部「雲」の断簡。『増補古筆名葉集』の権大納言行成(973〜1027)の条に「法輪寺切、巻物、朗詠、浅黄帋、キラ砂子飛雲アリ」とある。もとは巻子装、雁皮質の淡藍色の染紙に、紫と青との羅文の飛雲を漉き込み、全体にこまかく雲母箔が撒かれ、それに一行15〜16字程度で書写してある。この羅文の飛雲は全くこの切独特のものである。現在知られているのは下巻の断簡ばかりで、しかも数が少ない。上巻はよほどはやい時期に亡失してしまったのであろう。「法輪寺切」との呼称の由来は、京都の法輪寺あたりに伝わったためではなかろうか。書風は「高野切」第三種の系統で、御物和漢朗詠集(粘葉本)や、「伊予切」和漢朗詠集第一種が、非常によく似ていて、典麗、高雅の風がある。現存するものは少なく平安時代の名蹟として古来その評価は高い。


藻塩草
藻塩草 133(裏16) 人麿集下断簡(室町切) 伝(藤原)行成筆 金銀箔散下絵染斐紙墨書 20.0×15.8 平安時代後期
『増補古筆名葉集』の権大納言行成(973〜1027)の条に「室町切、四半、飛雲帋、金銀砂子銀泥ノ下画、スゝキ松唐草楓萩藤小鳥アリ、哥仙家集ノ哥二行書」とある。これは西本願寺本三十六人家集の一本である「人麿集下」の断簡である。もとは粘葉装、雁皮質の染紙に一面に金銀砂子を撒き、銀泥で、草花、小鳥などを下絵し、それに一面12行書、和歌一首2行書してある。「室町切」という呼称の由来は明らかでないが、おそらく、もと室町将軍家に伝来したためであろう。この「人麿集」は桃山時代に西本願寺より流出分割されたと考えられ、今日知られているのは、この一葉と他に一葉、歌数にして十二首現存するのみである。現在の西本願寺本三十六人家集のうちの「人麿集」は後の補写本であり、この切は、「人麿集」の原本断簡としてすこぶる貴重である。この「人麿集」と同筆と思われるものに、伝藤原佐理筆「筋切本古今集」、伝源俊頼筆「巻子本古今集」、「元永本古今集」、伝源俊頼筆「後撰集切」、同「下絵拾遺集抄切」などがある。筆者も確実なことはわからないが、藤原定実筆との説以外に、有力な反論は出ていない。


翰墨城
翰墨城 176 伝藤原行成 尾形切
「本願寺本三十六人家集」の「業平集」の断簡。もとは粘葉装の冊子本であったが、この「業平集」はすべて断簡として九葉が現存するのみ。「尾形切」の名は光琳・乾山の父である尾形宗謙の愛蔵にちなむといわれている。「三十六人家集」中の「素性集」と同筆であり、「翰墨城」では藤原行成(972−1027)を筆者としているが、手鑑によっては、藤原公任(966−1041)筆とするものもある。しかし、全三十九帖のうち、三十二帖が平安時代の書写であり、他ははるかのちの江戸時代の補写になる。この断簡は胡粉による白具引き地に、銀泥で蝶・小鳥・折枝の装飾下絵を描いた唐紙に、ゆったりとした、しかも強い線で書かれ、とりわけ連綿が美しい。巧みというより、なによりも格調高いこの書風は、料紙とともに王朝貴族の美意識を遺憾なく発揮している。


翰墨城
翰墨城 177 伝藤原行成 尾形切
「業平集」の断簡。現存する九葉のうちの一つ。この切の料紙も、装飾下絵として蝶・小鳥・折枝が描かれ、いかにも典雅な情趣をたたえている。また、仮名の連綿と墨継ぎが、両々相まって限りない美しさをみせている。


翰墨城
翰墨城 178 伝藤原行成 唐紙経切
写経断簡。何経の断簡かなお後考を要する。『古筆名葉集』に「経切 香色・或ハ雲帋墨字」とあり『増補古筆名葉集』に「経切 白帋香色雲帋浅黄金砂子等アリ墨字」とある。これは色唐紙を継いだもので、この部分は榿と白、巻子本の断簡。書風は優雅だが、伝称の行成の時代よりはやや下り、12世紀初めごろの作品と思われる。


翰墨城
翰墨城 179 伝藤原行成 猿丸集切
数少ない『猿丸集』の断簡。もとは胡蝶装の冊子本。料紙は藍紙に金銀砂子を撒いているが、他に打曇、または素紙のものもある。一面7行、和歌一首2行書きである。筆者を藤原行成と伝えるが、その書風より推して時代はもう少しあとで、11世紀後半のものと推定される。


翰墨城
翰墨城 180 藤原行成 白氏文集切
『白氏文集』巻第六十三の断簡。「詠史」「因夢有悟」に続く詩題「春遊」の八行分。もとは巻子本。料紙は素紙。なんの飾り気もない平明な書風が展開しているが、端正な字形、緩急・抑揚の自在な運筆、その優雅な趣はまさに平安朝ならではのもの。古筆家は藤原行成の筆跡と鑑定したが、これは信じてしかるべきもの。現存する「白氏詩巻」「書状」との比較において、行成真筆であることは明々白々である。この手鑑中にあって、屈指の優品ということができよう。


翰墨城
翰墨城 191 伝藤原行成 針切
『相模集』及び『源重之子僧集』の合冊の断簡。世に伝藤原行成(972−1027)筆の「針切」と呼ばれるものの一葉。別に同じ断簡で筆者を源道済としているものもあるが、これは伝源道済筆「小堀切」と書風が類似するために、誤って伝えられたと考えられる。「針切」の名は、筆の穂先を鋭く利かせた、繊細でありながら転折のはっきりした筆致が、あたかも針の先を思わせることから名づけられたもの。また、1ページに11行、一行に20字以上もの小さな字粒を重ねるのもこの筆者の特徴であり、連綿が巧みで縦の気脈がみごとに貫かれている。『源重之子僧集』の末尾に、「こなたはしけゆきのこのそうのしふなり仁口」の奥書があり、この「仁口」が筆者と推定される。あとの一字が虫損で判読を妨げるが、「与」とも読まれ、おそらく僧侶の名であろう。その書風からみても、また歌集が行成よりのちの相模の家集を含むことからも、行成の真筆とはいえない。平安末期、およそ11世紀の末ごろの書写になると思われる。


伝源順


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城

翰墨城
見ぬ世の友 132 伝源順筆 鎌倉切(栂尾切) 金銀泥下絵紫地紙本墨書 26.6×11.2 平安
 桂本万葉集(伝紀貫之筆)巻第四の断簡。普通この種の断簡は、伝源順筆栂尾切あるいは伝宗尊親王筆鎌倉切といわれるのだが、この手鑑の付鍵では伝源順筆鎌倉切という組合わせになっている。同じ断簡でありながら、各名称の年代的な開きは著しいのだが、これは仕方あるまい。もと桂宮(八条宮)家に伝来したこの万葉集は、現在御物として巻第四の零本一巻が、またその断簡が手鑑に貼られたり懸幅として諸家に分蔵されている。この七行の断簡は、紫地に染めた鳥の子紙に金銀泥で小鳥・草木・水が描かれている。題詞を高く、歌を低く書いており、五大万葉集の申でも古様の書き方をしている。文字は一様に背を低く構えてよく整い、用筆はまことに巧妙である。優麗典雅で気品の高いこの古筆切は、料紙の美しさと相まって、古来珍重されたことであろう。仮名の連綿は高野切第二種(源兼行筆と判明)の書風に近似しており、書写年代も相通ずるものと思われる。
 なお「増補古筆名葉集」源順の条には、"栂尾切、四半、万葉、真名カナ、哥二行書、金銀下画花鳥岩水艸等アリ"と記されている。

藻塩草 128(裏11) 万葉集巻第八断簡 (栂尾切)または(栂尾類切) 伝源順筆 金銀泥下絵斐紙墨書 21.6×13.8 鎌倉時代
 万葉集巻第八春雑歌の断簡である。『古筆名葉集」の源順(911〜983)の条に「万葉切、中四半、泥画鳥草アリ、或ハ二枚ツギ合セ、哥一首ハ真名一首ハ仮名」とあり、『増補古筆名葉集』に至って「栂尾切、四半、万葉、真名カナ哥二行書、金銀下画花鳥岩水草等アリ」とその名が見える。この切と御物桂宮本万葉集巻第四と比較すると、料紙の質も下絵文様も、文字の書風も違う。したがってこれは、今日いうところの「栂尾切」ではない。手鑑『見ぬ世の友』所収では、その付箋に、桂宮本万葉集の断簡を、「鎌倉切」と記載していることと考え合わせると、桂宮本万葉集の断簡を「万葉切」あるいは「鎌倉切」と呼び、よく似た別の手の『藻塩草」本のそれを「栂尾切」と呼称したのかもしれない。しかし、今日では桂宮本万葉集の断簡がすべて「栂尾切」と呼びならわされているので、この『藻塩草』所収の手のものを「栂尾類切」とでも呼ぶべきであろう。この『藻塩草』の「栂尾切」はもと巻子装、雁皮質の料紙に、金銀泥で、梅にうぐいす、岩草等が下絵されている。それに真名一行15字二行書、和歌一首仮名二行書となっている。文中「足北奇乃」と「比」が「北」にまちがって書かれている。書風は桂宮本万葉集に比し、筆致が固くのびやかでない。その料紙、書風よりみて、桂宮本万葉集よりそうとう時期は下り、鎌倉時代のものであろう。この類品は、他の手鑑にもまま貼押されている。

翰墨城 188 伝源順 栂尾切
「栂尾切」は、『万葉集』巻四・相聞の断簡に限られている。また、同じ巻四の大半が巻物として残されている。それは、もと伏見天皇が所持していたもので、紙背の紙のつなぎ目に天皇の花押が書かれている。のちに、加賀藩主前田利家の夫人の手に渡り、その孫である利常の娘が桂宮智仁親王に嫁入りしたときに贈られ、明治まで桂宮家に伝来し、現在、御物となっている。そこで「桂万葉集」と呼ばれている。まったく同一の連れが別名で伝わった好例であろう。「栂尾切」の筆者は、源順として伝わり、「桂万葉集」の筆者は、紀貫之として伝わっている。御物本は、みな色とりどりの染紙に、金銀泥で鳥や柳、流水などの下絵を施し、それらをつなぎ合わせた非常に美しい巻物で、平安朝絵画の遺品としても貴重な資料となるものである。この御物本から推察すると、はじめは、『万葉集』二十巻がすべてそろっていたものと思われる。おそらく、調度手本としてつくられたものであろう。この「栂尾切」と同筆遺品に、「高野切第二種」「雲紙本朗詠集」「関戸本朗詠集」などの古筆がある。これらの筆跡は、同筆である宇治の平等院鳳鳳堂扉絵の色紙形の筆跡が源兼行と推定されたことから、同じ兼行の筆跡であるとされるものである。したがって、「栂尾切」も、今日では源兼行の筆跡と推定されている。『万葉集』の写本には、この「栂尾切」はじめ、伝小野道風筆「下絵万葉抄切」、伝藤原公任筆「藍紙本万葉集」、伝藤原公任筆「金沢本万葉集」「天治本万葉集」「元暦校本万葉集」、伝藤原行成筆「金砂子切本万葉集」、伝藤原伊経筆「久世切本万葉集」、伝源俊頼筆「尼崎本万葉集」などの写本が平安時代の遺品として残されている。このうち「下絵万葉抄切」は、草仮名で書かれた十世紀にさかのぼるものであるが、現在二葉しか残されていない。「栂尾切」は、その次に古いもので、巻第四のかなりの部分を残しており、国文学史上にも非常に貴重な資料となっている。なお、名称の「栂尾切」の由来は明らかでないが、京都 栂尾の地に伝来したことを示すものとも考えられる。

翰墨城 189 伝源順 栂尾切
『万葉集』の巻四・相聞の断簡。薄藍色の染紙に、金銀泥で柳・小鳥の下絵を配した、目の覚めるような美しい料紙である。これらの下絵は、絵画史上においても、平安朝特有の遺例として貴重である。小鳥の絵などは、伝存する平安朝の古鏡の文様などにもまったく同じ形がみられ、当時の文様・下絵構成の一つの題材として一般化したデザインであったと思われる。


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 133 伝源順筆 難波切 飛雲紙本墨書 24.1×14.7 平安
 「元暦校本万葉集」巻第一四の断簡で、「増補古筆名葉集」源順の条に"難波切、四半、万葉、真名カナ、寄二行書、四方墨卦、飛雲帋、コノキレ伊経ト古札アリ誤ナリ"と記されるものに相当する。もとは四半の冊子本。雁皮質の斐紙に飛雲を点じ、料紙の四辺に墨罫をひいている。仮名はスケールの大きい書きぶりで、筆の運びと墨の濃淡・潤渇の関係がごく自然にあらわれている。この万葉集は、巻第二〇の巻末に『元暦元年(1184)6月9日、以或人校合了、右近権少将(花押)』の奥書があるところから、「元暦校本万葉集」と呼ばれている。この万葉集の大部分は、明和3年(1766)に伊勢国・富山与惣兵衛から摂津の俵屋久左衛門の所蔵となったが、その頃難波あたりで一部切られたため難波切と名付けられたらしい。また巻第四の断簡は、もと有栖川家に伝来したので有栖川切ともいわれている。源順(911−983)の筆跡と伝えられるが、もう少し後の書写になるものであろう。

藻塩草 129(裏12) 万葉集巻第十四断簡(難波切) 伝源順筆 飛雲斐紙墨書 25.0×15.7 平安時代後期
 元暦校本万葉集巻第十四東歌の断簡。『古筆名葉集』の源順(921〜983)の条にこの切は所収されず、『増補古筆名葉集』に「難波切、四半、万葉、真名カナ哥二行書、四方墨罫、飛雲帋、コノキレ伊経ト古札アリ誤ナリ」とある。
もとは四半の冊子装、雁皮質の飛雲料紙の天地左右に墨罫あり、その界高21.7p、界幅14.0p、一面七行書、和歌一首二〜三行書してある。この万葉集は、巻第二十に元暦元年(284)6月9日校合の奥書があるところから元暦校本万葉集と呼ばれている。「難波切」という呼称の由来はこの元暦校本万葉集の大部分が、明和3年(1766)伊勢国射和の富山与惣兵衛から、摂津の俵屋久左衛門の所蔵となったが、その頃、難波あたりで切られたためではないかといわれている。またこの万葉集は、その一部がもと有栖川宮家にも伝わっていたため、一名「有栖川切」とも呼ばれている。この元暦校本万葉集の巻第十九に見る書が、西本願寺本三十六人家集のうちの「家持集」「能宣集上・下」と同筆と認められるところから、元暦校本万葉集の書写年代は元永3年(1120)前後と考えられている。


伝藤原公任(伝源俊頼)


見ぬ世の友

翰墨城
見ぬ世の友 134 伝藤原公任(伝源俊頼)筆 糟色紙(後拾遺集切) 金銀箔散下絵染紙本墨書 14.3×14.5  平安
 古筆家が糟色紙と極め書きした付箋が貼られている。しかし、本来糟色紙というのは、西本願寺本三十六人集の「順集」の断簡のことで、料紙が継紙のものを糟色紙、継紙でないものは岡寺切といわれるものである。ところが、これは「後拾遺和歌集」の断簡(増基法師の歌)で、ふつう伝源俊頼筆後拾遺集切、あるいは伝西行筆綜切と呼ばれるものである。このような事実をみると、色紙形をし、継紙に書かれた断簡は、紙の糟を利用したという連想のもとにみな糟色紙と命名されたようである。もとは冊子本。破り継ぎ・切り継ぎをした料紙で、金銀の切箔が置かれている。書は、その料紙のもつ絵画性にあわせて和歌一首を散らし書きしたもので、筆力は充実し、運筆は軽快にながれている。平安末期の書写になるものであろう。なお、「増補古筆名葉集」四条大納言公任卿の条には、"糟色紙、色々ノ帋番ヲ継合セタルナリ、哥仙ノウタ、チラシ書"と記されている。

翰墨城 183 伝藤原公任 糟色紙
『後拾遺和歌集』巻第十六を書写しているが、『国歌大観』本との比較において、和歌一首とつぎの詞書との間に、九首分の欠脱がみられ、同集の中から抜き書きしたとも考えられる。もとは、粘葉装の冊子本と思われ、この一葉は、薄緑の染紙および素紙を、曲線の形に切り継いだもの。書式は詞書を一毅低く置いて、和歌を少し高めに一首2行書きの、ごく普通の体裁をとる。この連れで金銀の小切箔を撒いた染紙を破り継いだ一葉には、自由な散らし書きがみられる。料紙の技法は、「本願寺本三十六人家集」にのみ見いだされる切り継ぎ・破り継ぎを用いているのが特徴。「糟色紙」の命名の由来は詳らかでないが、紙のA(糟は当て字)を継ぎ合わせたのにちなむものか。また、色紙と呼んだのは、その形が升型で、後世の色紙の形に通じるゆえであろう。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 135 伝藤原公任筆 堺色紙 銀泥下絵紙本墨書 26.9×26.5 平安
 第一句に二文字の異同はあるが、「古今和歌集」巻第一一・恋歌一に収められる第四七一番紀貫之の歌に該当する。堺色紙という名称は、和泉国堺の某氏旧蔵ということによるのであろうか。「増補古筆名葉集」四条大納言公任卿の条には、"堺色紙、浅黄帋、哥チラシ書、金銀下画アリ"と記録されている。もとは巻子本で、和歌一首ごとに色紙形に体裁を整えて切断したものである。料紙には銀泥をもって鳥・蝶・薄・女郎花・楓などが大きくしかも細密に描かれており、絵画資料としても貴重なものであろう。字形は整斉で豊潤温雅な風を誇り、散らし書きの妙をみせている。筆者は藤原公任(966−1041)といわれるが、もとより確証はない。平安後期の書写になるものであろう。

見ぬ世の友
見ぬ世の友 143 伝藤原公任筆 下絵朗詠集切 金銀砂子散下絵紙本墨書 26.5×9.7 平安
 山名切と書いた付箋が貼付されている。山名切とは「新撰朗詠集」を書いた藤原基俊の自筆本で、「古筆名葉集」藤原基俊朝臣の条に"藻ノ下画、銀砂子地、新撰朗詠"とあり、また「増補古筆名葉集」には"山名切、自撰新撰朗詠、銀泥紅葉蝶鳥藻等ノ下画、一行十四字"と記されているもの。が、これは「和漢朗詠集」巻下・文詞付遣文にあたる断簡で、"藤原公任筆下絵朗詠集切〃と呼ばれるもの。おそらく、この二つの料紙・書風が近似しているために、誤り伝えられたものであろう。もとは巻子本。白地の素紙に金銀の砂子をあらく撒き、銀泥で草花などの下絵を描いている。書は一行一四〜五字で比較的平たい感じであるが、側筆をからませるようにした、なかなかに筆力の充実した書きぶりである。筆者には、「和漢朗詠集」の撰者である藤原公任(966−1041)を宛てているが、公任自筆の「稿本北山抄」とは明らかに別筆である。前述の山名切とは書風が非常によく似たものゆえ、平安末期の書写になるものと考えられる。なお、「増補古筆名葉集」四条大納言公任卿の条にはこの切の記載がない。古筆切の中でも、数少ない作品の一つであろう。


藻塩草
藻塩草 134(裏17) 順集断簡(岡寺切) 伝四条公任筆 金銀箔散下絵染斐紙墨書 19.7×15.6 平安時代後期
 三十六人家集のうち、「源順集」の断簡。『増補古筆名葉集』の四条大納言(藤原)公任(966〜1041)の条に「岡寺切、集未詳、哥チラシ書、浅黄帋、金銀砂子少銀泥、小鳥松唐草藤スゝキ等ノ草花アリ、コノ切ニ似テ行成卿アリ」とある。もとは四半の粘葉装、雁皮質の浅葱色染紙に、一面に金銀砂子を撒き、銀泥で草花、小鳥などの下絵を描き、それに一面10行書、和歌一首3行書してある。「岡寺切」との名称の由来は、大和国の岡寺に関係があるのかもしれないが、なお明らかにし難い。この「順集」も「人麿集」と同じく西本願寺より桃山時代にその一部が逸脱し分割されたと考えられ、今日知られているのは八面半分、後の二十五面半分の行方が知れないという。料紙に継紙のあるのを「糟色紙」、ないのを「岡寺切」と呼んで区別している。西本願寺本三十六人家集のうち、「貫之集下」、「中務集」と同筆であるところから、筆者は藤原定信と推定されている。


藻塩草
藻塩草 135(裏18) 和漢朗詠集巻上断簡(大内切) 伝四条公任筆 雲母摺白胡粉地楮カラ紙墨書 21.4×15.0 平安時代後期
 和漢朗詠集巻上冬部「初冬」の断簡。『古筆名葉集』の四条大納言(藤原)公任の条に「朗詠集切、帋色々」とあり、『増補古筆名葉集』にも「朗詠集切、浅黄唐カミ、地其外色ぐアリ、一行十六字」とあるものに適合する。もとは巻子装、料紙は楮質の白胡粉地の唐紙であるが、いたみがひどく、美しく保存された切は少ない。それに唐草の雲母摺り下絵文様がある。「大内切」の名称の由来は、周防の大内家に伝来したためと考えられるが、なお確証をえない。また公任筆と伝えるが、公任の真蹟と認められる稿本北山抄と比し、その書風を異にする。むしろ伝藤原伊経筆元暦校本万葉集巻第十四、「難波切」(冷泉家の素性集)とほぼ同筆と思われる。


翰墨城
翰墨城 182 伝藤原公任 詩書切
藍色の雲紙に金銀の揉み箔を撒いた料紙に、『和漢朗詠集』などの摘句を書写する。1行7、8字で、字粒は大きく、軽快な運筆による整斉な行草体が並んでいる。この切の連れが「安宅切」とともに巻子本に合装されているが、ほかには古筆手鑑などに数葉を確認できるだけの希少な遺墨。「詩書切」には七種類の同筆作品があるが、藤原公任の書写ではなく、藤原定信(1088−1156)の真筆と断定される。平安時代の古筆の中で、筆者が判明するのはきわめて貴重である。この手鑑中にあって、屈指の優品ということができよう。


翰墨城
翰墨城 184 伝藤原公任 兼輔集切
『増補古筆名葉集』の四条大納言公任卿の項には、数多い古筆切の名がある。その中に、「小四半 哥仙家哥チラシ書金銀砂子帋」とある。これは、「兼輔集」切断簡に該当するものであろう。両断簡とも小さめの金銀砂子を撒いた料紙。内容は三十六歌仙の家集である。同じ料紙に「中務集」と「業平集」とが書写されて伝存している。この同一料紙の三集は、「本願寺本三十六人家集」とは別のグループの三十六人集と考えられるが、書写年代はほぼ同じである。この「兼輔集」の筆跡は、「本願寺本三十六人家集」の「貫之集下」「順集」「中務集」と同筆である。したがって、藤原公任の書写ではなく、藤原定信の自筆と考えられるものである。十二世紀初頭の書写。


翰墨城
翰墨城 185 伝藤原公任 兼輔集切
同じ「兼輔集」の断簡で、藤原定信の筆である。彼独特の速筆で、線の細太による変化をみせている。なお、料紙の特徴を命名して、「砂子切兼輔集」と呼ぶこともある。


伝藤原定頼


見ぬ世の友
見ぬ世の友 136 伝藤原定頼筆 右近切 金銀砂子散紙本墨書 19.6×15.7 平安
 右近切と鳥丸切は、もと同じ冊子本の断簡である。世に鳥丸切と呼ばれる歌切だが、この切には右近切という名称がつけられている。しかし、その拠るところを知らない。「後撰和歌集」巻第二・春歌の中の断簡で、一面十行書き、料紙は金銀の砂子をあらく撒いたもの。


見ぬ世の友

藻塩草

翰墨城
見ぬ世の友 137 伝藤原定頼筆 鳥丸切 金銀砂子散飛雲紙本墨書 20.7×14.7 平安
 「後撰和歌集」巻第八・冬歌の断簡で、「増補古筆名葉集」権中納言定頼卿の条に"烏丸切、四半、後撰、哥二行書、飛雲、金銀砂子"と記されるものに相当する。江戸初期の能書・鳥丸光広(1579−1638)が所蔵していたので、鳥丸切という。もとは冊子本。料紙は雁皮質の飛雲紙で、表裏面とも金銀の砂子をあらく撒いている。一面一〇行書き、和歌一首は二行書き。同切には、ときに散らし書きがあるという。字形はやや縦長で整斉とし、線はいささか変化に乏しいが、ごく自然にすらすらとながれている。筆者を藤原定頼(995−1045)と伝えるが、もとより確証あってのことではない。もう少し後の人の手になるものであろう。

藻塩草 136(裏19) 後撰和歌集巻第五断簡(烏丸切) 伝(藤原)定頼筆 金銀箔散飛雲斐紙墨書 19.8×15.2 平安時代後期
 後撰和歌集巻第五秋歌上の断簡。『増補古筆名葉集』の中納言定頼(995〜1045)の条に「烏丸切、四半、後撰、哥二行書、飛雲金銀砂子」とある。もと烏丸家に伝えられたので「鳥丸切」と名付けられたらしい。また「烏丸切」は一名、「右近切」とも呼ばれる。手鑑『見ぬ世の友』には、同じ後撰和歌集断簡が一枚は「右近切」、一枚は「烏丸切」とある。鑑定者が別筆と思ったのかもしれない。もとは四半の綴葉装、雁皮質の飛雲紙に表裏両面に金銀砂子が撒いてある。一面10行書、和歌一首2行書。筆者を定頼と伝えるが、根拠は明らかでない。西本願寺本三十六人家集のうち「元真集」が、「烏丸切」と同筆と思われるところから、元永年間頃の書写と考えられる。

翰墨城 186 伝藤原定頼 烏丸切
『後撰和歌集』巻第七・秋歌下の断簡。「寛永の三筆」に比肩する江戸初期の能書烏丸光広(1579−1638)の所蔵にちなんで、ふつう「烏丸切」と呼ばれるが、「右近切」(手鑑「見ぬ世の友」所収)の別称もある。もと粘葉装の冊子本(上下二冊)で、今日、上冊の断簡(巻四・十を除く八巻分)二百四十数首の現存を確認できる。ところどころに藍・紫の飛雲を配し、全体に金銀の砂子をまばらに撒いた料紙は、伝源実朝筆「中院切」などと同種。書風は一見変化に乏しいが、神経の行き届いた確かな技量を示す。十二世紀初頭の遺品と思われ、筆者は藤原定頼(992−1045)ではない。『後撰和歌集』のもっとも古い写本の一つとして、国文学史的にも貴重である。


見ぬ世の友

翰墨城
見ぬ世の友 138 伝藤原定頼筆 津田切 金銀砂子散紙本墨書 26.4×7.4 平安
 「妙法蓮華経」巻第二・讐喩品第三の終りの方、四言一句の偶を連記したところの断簡。もとは巻子本、料紙は白紙。茶色の界が施され、一面に金銀の砂子が撒かれている。書は、文字の背を低く構えた、落着いた趣であり、点画はまことに柔和である。筆者は藤原公任の子定頼と伝えるが、これも確証はない。津田切という名の由来は不明である。

翰墨城 187 伝藤原定頼 津田切
「法華経」巻第二・器附晦第三の断簡で、「法華経七喩」の第一、「三車火宅」の譬えを説いた部分。手鑑「見ぬ世の友」所収の断簡に「津田切」と付箋がある。桃山時代の茶人 天王寺屋、津田宗及の所蔵にちなむ名称であろうか。素紙に鍮泥(不純物の多い金泥)で界を引き、全面に金銀のごく小さな切箔を散らす。経師風でない穏やかな書風は、なかなかの達筆で、当代一流の能書の手になるものと思われる。定頼の筆という伝称には根拠がない。十二世紀半ばころの書写。


翰墨城
翰墨城 194 伝藤原定頼 大江切
『古今和歌集』巻第十一・恋歌一の断簡。もとは冊子本。楮質の素紙に雲母砂子、金銀の切箔を撒き、横に五条、縦に各行の空界を引いて書写している。ために字形・行立ては整然としており、少しの気取りもなく、筆の運びもよく微轡ている。伝称筆者は藤原定頼(995−1045)。付箋に俊頼とあるのは誤りゆえ、左下に、この手鑑のかつての所蔵者益田鈍翁の手で、「定頼大江切」と書き改めている。しかし、これとてなんら確証あってのことではない。その書風は「烏丸切」や「西本願寺本元真集」に近似しており、やはり12二世紀初頭に書かれたものと考えられる。


伝源兼行


見ぬ世の友

見ぬ世の友 139 伝源兼行筆 西大寺切 紙本墨書 29.1×8.8 鎌倉
 「上宮聖徳法王帝説」の断簡で、「増補古筆名葉集」源兼行朝臣の条に"〇巻物切、天皇仰書、一行十二字"と記録されるものに相当しよう。もとは巻子本で、料紙は素紙。一行一二字。字間と行間を広くあけ、まことにゆったりとした趣である。字形は端正にしてよく整い、線は細く、一点一画は穏やかでのびのびと書かれている。筆者は源兼行(11世紀初め)と伝えているが、平等院鳳凰堂扉絵の色紙形の書風とは明らかに別筆。おそらく、鎌倉期の書写になるものであろう。西大寺切という名の由来は、この巻物がもと西大寺に伝来した、という解釈によるものであろうか。

翰墨城 190 伝源兼行 西大寺切
「上宮聖徳法王帝説」の断簡で、『増補古筆名葉集』の源兼行朝臣の条に「巻物切 天皇仰書 一行十二字」とあるのに相当しよう。もとは巻子本で料紙は素紙。一行は12字と少なく、字形は端正にして偏平、点画は細くて単調であるが、穏やかでのびのびとした筆致である。筆者を源兼行と伝える。兼行は当代きっての能書として名高く、「平等院鳳鳳堂扉絵色紙形」「高野切古今集(第二種)」「桂宮本万葉集」「関戸本古今集」など数多くの遺品がその真筆と認められているが、これらの書風と比較して、同筆とは認めがたく、兼行のころより下って、おそらく平安末期の書写になるものであろう。「西大寺切」の名は、この巻物がもと西大寺に伝来したことに由来するものと考えられる。


藻塩草
藻塩草 137(裏20) 〔仏書断簡〕(初瀬切) 伝(源)兼行筆 楮紙墨書 31.7×3.7 平安時代後期
 『古筆名葉集』の源兼行(1001〜1075?)の条に「真名切、中字白帋」とあり、また『増補古筆名葉集』には「初瀬切、仏書、巻物、行書、一行十五字」とある。これは密教系の月次行事の文句のようであるが、なお後考を要する。もとは巻子装、楮まじりの雁皮質の料紙の幅は広く、そうとう大きい巻物であったらしい。天地、特に下のほうは、この手鑑編集上、そうとう切られているようである。筆者を兼行と伝えるが、書風よりみて、その書写時期は、兼行の頃より下るものと思われる。「初瀬切」と同じく伝兼行筆と伝える「西大寺切」とは同筆と認められない。書は、「西大寺切」のほうがすぐれている。


伝源俊頼


見ぬ世の友 129 伝源俊頼筆 大字切 紙本墨書 25.4×13.1 平安〜鎌倉
 「和漢朗詠集」抄書本の断簡二枚を継ぎ合わせたもので、初めの『西楼月』は巻上春・鶯部の句、後の二行は巻上夏・首夏部の句に該当する。和漢朗詠集の写本は数多く伝来しているが、その中でも特に文字が大きいので"大字切"と名付けたのであろう。一枚目は筋切の通し文様と似た文様のある斐紙、二枚目は紙面のやや粗い楮紙で、ともに擦傷が甚だしい。大胆に自由に大書した異色の古筆切ではあるが、本来これは、和漢朗詠集の句を借りて習字したものではなかったろうか。筆者を源俊頼(?−1129)と伝えているが、もう少し後の書写になるものであろう。


見ぬ世の友
見ぬ世の友 140 伝源俊頼筆 尼崎切 雲母砂子散紙本墨書 25.1×14.1 鎌倉
 「尼崎本万葉集」巻第一二の断簡。この種の万葉集は巻第一二と一六が現存するのみ。もとは完本として、尼崎の某家に伝来したものなのであろう。「増補古筆名葉集」源俊頼朝臣の条に、"四半、白カラ帋キラ地、万葉、真名一行、カナ二行"という記載があるが、これは尼崎切のことをさしているものと思われる。もとは冊子本。料紙は白地の斐紙で、いちめんに雲母の砂子が撒かれている。書は細身の線で小粒の字だが、よく整っている。漢字の書きぶりには、非常に素朴な味わいがある。筆者は源俊頼(?−1129)というが、鎌倉初期の書写になるものであろう。


見ぬ世の友

藻塩草
見ぬ世の友 141 伝源俊頼筆 東大寺切 雲母摺文様紙本墨書 24.1×14.9 平安
 永観2年(984)源為憲が尊子内親王(冷泉天皇皇女)のために撰せられた「三宝絵詞」の詞だけを書いた断簡。もとは冊子本。料紙は白地の唐紙で、七宝・菱唐草・亀甲などの雲母文様があり、淡墨で罫がひかれている。一面七行書き。漢字・仮名交り文であるが、よく調和しており、格調高い筆致をみせている。愛知・関戸家には、原本の三分の一ほどの零本一帖が伝えられているが、その奥書に『保安元年(1120)6月7日書うつしおはりぬ。願以此功徳。普及於一切。我等与衆生。皆共成仏道。』とあり、書写の年月日が明らかである。源俊頼の筆跡と伝えるが、実証する手がかりを得ることができない。もと東大寺に伝来したので、東大寺切と名付けられたのであろうか。「古筆名葉集」源俊頼朝臣の条には、"東大寺切、四半、白唐帋、墨界、カナ交リ、哥書ニアラス、縁起"と記されている。

藻塩草 139(裏22) 三宝絵詞断簡(東大寺切) 伝(源)俊頼筆 雲母摺文様斐カラ紙墨書 24.3×15.5 平安時代後期
 三宝絵詞の断簡。『古筆名葉集」の源俊頼(?〜1129)の条に「東大寺切、四半、白唐帋、墨界カナ交リ、哥書ニアラス縁起」とある。もと東大寺に伝えられたのでこの名が生じたのであろう。もとは四半の綴葉装、雁皮質の料紙は全部白の唐紙で、芥子、七宝、菱唐草、亀甲などの雲母文様がある。それに墨罫が施され、その界高20.5p、界幅0.8〜0.9p、一面7行書、一行平均18字前後、仮名まじり文で墨書してある。三宝絵詞は永観2年(984)源為憲が17歳で出家された尊子内親王(冷泉天皇皇女、円融天皇女御)のため著わしたもので、絵冊子の詞書として作られたものと考えられている。この「東大寺切」の原本である三宝絵詞の零本一帖の奥書に「保安元年(1120)6月7日書うつしおはりぬ。願以 此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆共成仏道」とあることによって、これは現存する三宝絵詞のもっとも古い写本とわかり、書写年代の明らかな古筆として著名である。書風はおだやかでしかも格調高く、院政時代におけるもっともすぐれた古筆の一つといえよう。


翰墨城
翰墨城 192 伝源俊頼 唐紙経切
「法華経」巻第四・見宝塔品第十一の巻末の断簡。『古筆名葉集』の源俊頼(?一1129)の項に「経切 白カラ帋墨界」とある。もとは巻子装か。料紙は、胡粉地に白雲母で、七宝つなぎの摺文様を表わしている。この唐紙は、保安元年(1120)の年紀をもつ伝俊頼筆「東大寺切本三宝絵詞」と同じもの。また、書風からいっても平安時代末期のものと考えられる。この断簡には「妙法蓮華経巻第四」の尾題もあり、この経切の基準となる断簡といえよう。


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翰墨城 193 伝源俊頼 御形宣旨集切
右大弁源相職(901一943)の娘で、加茂斎院女房であった人の『御形宣旨集』の断簡で、十九首一冊の小冊子。宮内庁書陵部に江戸時代の写本二部を伝えるのみで、ほかに伝本がない。左右が切断されているが、1ページを表裏に剥がしたものらしく、もとは冊子本か。雁皮質の料紙に雲母摺りの唐草文様がみられる。一面9行程度であったらしいが、左端は四半より一行分短いので、新しい飛雲紙(江戸後期)で補っている。和歌一首、3行、書風は流麗で、平安時代後期のものと推定される。

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翰墨城 195 伝源俊頼 高光集切
三十六歌仙の一人、藤原高光(?−994)の家集を書写した断簡。もと粘葉装の冊子本で、藍色の羅紋紙に金銀砂子を撒いた特異な料紙を用いている。字形はやや偏平で右肩上がり、紙面いっぱいに大ぶりに、いかにも力感あふれる筆致が続くが、いささか喧燥にすぎるきらいがないでもない。古筆家はこれを源俊頼(?−1129)の筆跡としたが、なにも確証はなく、俊頼と伝える他の作品とも書風を異にしている。書写年代は、十二世紀の初めのころということになろうか。