殷墟の発掘U

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 藁城台西遺址は、河北省藁城県台西村から、1965年河北省文化局文物工作隊が発見調査し、1973年河北省博物館・文物管理処が発掘しました。殷中期の遺址で、安陽以前のものです。刻画符号のある土器口辺部の破片79件が出土しました。土器を焼く前に、竹や木、あるいは骨などを使って表面に鋭く刻まれたもので、安陽期前後の、記号から甲骨文字へ移行する過程を示す(『文物』1974-8)ものです。「刀」「臣」「魚」「貫雀」など、甲骨文字の字形に一脈通じるものがある(河北省博物館・河北省文管処台西発掘小組「河北藁城県台西村商代遺址1973年的重要発現」『文物』1974-4)といいます。

甲骨文字
李雲「藁城台西商代遺址発現的陶器文字」『文物』1974-8より抄出

 清江呉城遺址は、江西省清江県呉城、長江に臨む鄱陽湖のほとりで発見されました。殷文化が南方にまで及んでいたことが証明されました。1973年発見され、同年〜1974年江西省博物館・北京大学歴史系考古専業・清江県博物館が発掘しました。殷中期〜殷晩期の遺址で、建物跡2基・墓16座・青銅器・土器・石器・玉器など900余件が出土しました。140件に及ぶ土器の底や肩部に陶文38件・刻画符号66字が見つかり、三期に分類されました。
 第一期は、殷代中期のもので、符号的な要素がありますが、曲線的な符号文字へ進歩した形を示しています。甲骨文字以前の文体を成した?銘文も見つかりました。
 第二期は安陽早期です。第三期は安陽晩期〜周初のもので、長いものでは12字・7 字・5 字・4 字連ねて刻されています。甲骨文字の字形に近似していますが、しかし同じ文字体系か証明・解読されていません(江西省博物館・北京大学歴史系考古専業・清江県博物館「江西清江呉城商代遺址発掘簡報」『文物』1975-7・唐蘭「関于江西呉城文化遺址与文字的初歩探索」『文物』1975-7)

第一期(二里崗早期)
74秋 T7D:51 74秋 墳 基西区取土採集
74秋 T7D:58
 74秋 T7D:46

第二期(安陽殷墟早期)

第三期(西周初期)

江西省博物館・北京大学歴史系考古専業・清江県博物館「江西清江呉城商代遺址発掘簡報」『文物』1975-7より転載

 蘇埠屯遺址は益都県蘇埠屯で発見され、1965〜1966年、殷晩期の大型墓2 基・中型墓2 基を発掘しました。いずれも奴隷が殉葬されていました。1号大型墓は、安陽殷墟の王陵に次ぐ大きさです。諸侯か方伯(東方の重要な同盟国、山東地区の薄姑)の陵墓?といわれます。墓室は長さ15m・幅10.7m・深さ8.25m・墓道が4本あり、南墓道は長さ26mもありました。墓室に「亞」の字形の槨室があり、墓底に腰坑(槨室の中央に設けた犠牲を入れる小さな穴) と、奠基坑(墓の基礎を定めた穴)が見つかりました。墓内に奴隷48体・犬6 匹の殉葬がありました。出土した銅鉞には、凶悪な顔の透かし彫りと族記号がありました。
 山西侯馬鋳銅遺址は1952年に発見され、1955〜56年に調査、1956〜66年にわたり発掘されました。完整土器700余件、陶片10万余片が出土し、刻画符号・暗紋・刻紋が発見(山西省考古研究所『侯馬鋳銅遺址』1993 文物出版社)されました。


山西省考古研究所『侯馬鋳銅遺址』1993 文物出版社より抄出

 樟樹呉城遺址は江西省樟樹市山前郷呉城で発見され、1973年以来6 回にわたり発掘されました。1992年中山大学人類学系・江西省文物考古研究所・樟樹市博物館が第7 次発掘をし、商代文化遺存から刻画符号が出土(江西省文物考古研究所・中山大学人類学系・樟樹市博物館「樟樹呉城遺址第七次発掘簡報」『文物』1993-7)しました。


江西省文物考古研究所・中山大学人類学系・樟樹市博物館「樟樹呉城遺址第七次発掘簡報」『文物』1993-7より転載

 河南柘城孟庄商代遺址は、柘城から西に約7qの場所にある早商期の遺址です。1961年に発見され、1976〜1977年に中国社会科学院考古研究所・商丘地区文物管理委員会が発掘しました。そして、住居跡・窖穴・石器・土器・卜骨・卜甲などが出土しました。刻画符号(報告書では陶文)が見つかり、甲骨・金文に類似している(中国社会科学院考古研究所河南一隊・商丘地区文物管理委員会「河南柘城孟庄商代遺址」『考古学報』1982-1)とあります。


中国社会科学院考古研究所河南一隊・商丘地区文物管理委員会「河南柘城孟庄商代遺址」『考古学報』1982-1より転載

 広東大埔県古墓葬遺址は、広東省大埔県の王蘭金星面山・屋背嶺・斜背嶺・保安背頭嶺・湖寮鎮莒村下北山・結高嶺・墟鎮街背山から発見されました。1982年に調査し、1986年に広東省博物館・大埔県博物館が発掘しました。河南二里崗文化・早商文化の古墓葬遺址です。随葬品は、土器(尊・壷・豆・罐など)・石器(戈・環・刀など)・玉器などで、土器上に刻画符号が見られます(広東省博物館・大埔県博物館「広東大埔県古墓葬清理簡報」『文物』1991-11)


広東省博物館・大埔県博物館「広東大埔県古墓葬清理簡報」『文物』1991-11より転載

 江西新干大洋洲商墓遺址は、江西省新干県大洋洲郷から1989年に発見され、江西省文物考古研究所・江西省新干県博物館が発掘しました。随葬品は、銅器・玉器・土器で、土器上に刻画符号(江西省文物考古研究所・江西省新干県博物館「江西新干大洋洲商墓発掘簡報」『文物』1991-10)が見つかりました。


江西省文物考古研究所・江西省新干県博物館「江西新干大洋洲商墓発掘簡報」『文物』1991-10より転載

 珠江三角洲遺址では、珠江三角洲の咸頭嶺・大黄沙・茅崗・河宕などから、石器・骨器・土器等が出土しました。晩期の高要茅崗・仏山河宕出土の土器上に刻画符号(呉曽徳・叶楊「論新石器時代珠江三角洲区域文化」『考古学報』1993-2)が見つかりました。


呉曽徳・叶楊「論新石器時代珠江三角洲区域文化」『考古学報』1993-2より転載

 安陽花園庄南地遺址は、1986〜1987年に中国社会科学院考古研究所安陽工作隊が発掘し、刻字陶片6 件が出土しました。大盆口片の3 字は、1 字目は上半分が欠けて読めませんが、下2字は"矣亞"即ち"亞矣"です。盆口片の"×"字は甲骨文字の"五"字です。弦紋罐片は下半分が欠けて読めません。箕形器の前端は"莫"字です。罐口片の"×"字は甲骨文字の"五"字です。瓮口片は"祀"字です(中国社会科学院考古研究所安陽工作隊「1986〜1987年安陽花園庄南地発掘報告」『考古学報』1992-1)
 確かにそう見えなくもありませんが、果たして甲骨文字を基準に刻符を解読するのが良いかどうか、私には疑問です。何故なら、刻符は甲骨文字より3000年以上前から存在し、しかも形は異なりますが、種々な部族に共通して見られます。もし、甲骨文字を基準にしてこれらを解読するとすれば、刻符は漢字の起源ということになります。それは明らかに誤りだと私は考えます。


中国社会科学院考古研究所安陽工作隊「1986〜1987年安陽花園庄南地発掘報告」『考古学報』1992-1より転載

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