第 七 室 解 説

 およそ書を学ぶ者にとって、先人の知恵を汲み取ることは不可欠の要件です。そのためには、先人の残した名蹟を手本とする、ということになります。
 そもそも、学書の対象とされるものは真蹟であったと思われます。真蹟は本人が実際に筆を取って書いたものです。鑑賞の対象となり、その中から書いた人の人間性を発見することもできます。
 しかし、真蹟のみでは数に限りがあり、入手することはなかなか困難です。そこで、その真蹟を写す方法が考え出されました。薄い紙を上にあてて、写し書きして別のものを作りました。これを「摸(模)」といいます。
 さらに、蝋を引いた紙を置き、明かりを裏からあててすき写しをしました。これを「響搨(キョウトウ)」といいます。
 また、真蹟を横に置いてそっくりに書いたりもしました。これを「臨」といいます。
 このようにして、その複製品が作られましたが、それとて数は少なく限られています。
 そこでそれを石や木に刻して拓に取ることが考え出されました。「刻帖」といわれるもので、これがすなわち「法帖」です。
 「法」とは法則の法で、手本という意味です。
 「帖」は、うす絹に書かれた文字のことです。まだ紙のなかった時代には、うす絹・木や竹の片に書きました。帖の偏に巾が付いているのはそのためです。また、時代が下がると、書籍の装丁の一種である折本のこともいいました。
 こうして一種の名蹟を刻した「単帖」が作られ、やがて、多くの人達の名蹟を集刻した「集帖」が作られました。
 その筆頭にあげられるのが《淳化閣帖》です。《淳化閣帖》は、宋の太宗の淳化3年(992)、内府に収蔵されている歴代の名蹟を集め、翰林侍書の王著に命じて編次摸勒させたものです。
 しかしこの原本は、刻されてすぐ火災に遭い、破損されてしまいました。そのため、その刻したものが木であったか、石であったかについて古くから考証がなされています。
 宋の太宗の命によって作られた《淳化閣帖》は、二府に登進する大臣に賜ったといわれます。賜本ということで数は僅かしか作られませんでした。
 数少ない《淳化閣帖》を得た人々は家宝としたことでしょう。そしてそれをもとにして、石や木に刻して拓をとり、翻刻本を作りました。
 その後は翻刻本が翻刻本を生み、数多くの翻刻本が作られました。その中に《粛府本淳化閣帖》(蘭州本・遵訓閣本)と呼ばれるものがあります、これは明の太祖の第14子粛荘王が蘭州に封ぜられたとき、太祖から賜ったものが代々粛王家に伝承され、それをもとに、粛憲王が萬暦のとき作った翻刻本です。7年の年月を要して天啓元年(1621)に完成しました。途中、粛憲王は没しましたが、子の識メが遂行しました。款記は萬暦43年(1615)となっています。
 石に番号が刻され、跋が大変に多いのが特徴です。しかし、明末には原石は壊れ補刻され、現在、蘭州博物館に蔵されています。
 この《粛府本》をもとに刻されたものが第7室にある《淳化閣帖》で、《西安本淳化閣帖》(陜西本)と呼ばれています。石の番号が2か所に刻されていることで《粛府本》と区別できます。