張横渠東西銘

 呉榮光(ゴエイコウ 1773〜1843)は、清の政治家で、あざなは殿垣、伯澤・荷屋・石雲山人と号しました。南海(広東省)の人で、嘉慶4年(1779)の進士です。官は湖広巡撫に至り、一時は湖広総督代理を兼ねたこともありました。阮元(ゲンゲン)の門弟で、学者としても名があり、劉墉・翁方綱にも指導を受けました。
 彼の書は帖学派を主としました。とくに歐陽詢・蘇軾を好んだと伝わりますが、同郷の後輩である康有為は「呉榮光は帖学の名家で、その書は広州に冠たるものである。筆法は張黒女(チョウコクジョ)墓誌から会得しているようだ」と評しています。
 同時に、彼は収蔵家としても注目されます。当時、広東は西洋貿易を独占しており、多くの豪商が輩出し、その経済力を背景に賞鑒家が活躍しました。かれらは収集を競い、収蔵品をもとに集帖を刻しました。中でも呉榮光がその筆頭で、その他、葉夢龍・藩正煒(ハンセイイ)・藩仕成・伍葆恒(ゴホウコウ)・孔廣(コウコウヨウ)・孔廣陶兄弟らがいます。
 呉榮光はとくに鑑別に精しく、著に『辛丑鎖夏記(シンチュウショウカキ)』があります。その2000点におよぶ収蔵の碑版法帖から選別し、道光10年(1830)、真跡・古拓を摸勒上石して『筠清館(インセイカン)法帖』を作りました。この法帖は、慎重な選択という点と、量より質で他の広東収蔵家の諸刻をぬいています。また優品の多いことでも有名な《鐘鼎彝器(ショウテイイキ)》は筠清館を築いて貯えました。