懐素千字文

 懐素は、俗姓銭氏、あざなを蔵真といい、永州零陵(湖南)の人です。詩人の銭起の従甥にあたります。幼い時仏門に入りましたが、書が好きで余暇があれば翰墨に親しみました。貧乏で紙が得られなかったので、芭蕉をたくさん植えて手習いの紙の代わりに使いました。それが不足すると、板に漆を塗ってそれを使って手習いし、穴があいたと伝わっています。また、ちびた筆がうずたかくなったので、山の麓に埋めて筆塚と名付けたともいわれています。
 少年の頃から草書で郷里に知られましたが、古人の筆蹟を見ることができず、西方に遊歴し、当時の名士に会い、39名士の讃美の詩を得ました。そこで、大暦12年(777)洛陽で顔真卿に会い、その詩を示して、序を乞いました。この時、顔真卿が彼のためにしたためたのが「懐素上人草書歌序」です。それによると礼部侍郎の張謂が中心になって推薦しています。
 懐素は生まれつき酒が好きで細事に拘泥せず、酒興にのると、いたるところの寺壁・村の牆・衣装・器具を問わず書いたので、狂僧と呼ばれ、張旭と並べて「張顛素狂」といわれました。懐素は、従兄弟にあたる鄔彤に学びました。鄔彤は張旭に筆法を学んでいて、顔真卿とは同門にあたります。したがって懐素は、顔真卿に益を受けたともいっていますが、自らも夏雲の変化多き姿を見て悟ったともいっています。懐素は、いわゆる連綿遊絲の体をなして、自然に流動する美しさを表現しました。
 懐素の生年について、「清浄経跋」には開元13年(725)とあり、「千字文跋」には開元25年(736)とあります。どちらが正しいか容易に決められませんが、私は開元25年説をとります。
 懐素の《千字文》は、世に何本か伝わり、古く山東に石刻があったことが「宝刻叢編」に「諸道石刻録」から引用文が記載されています。碑林にあるのは、明の成化6年(1470)に余子俊が摸刻したもので、現存する石刻本のなかでは、最も字が大きいので《大字本》とも呼ばれ、また《西安本》とも呼ばれています。
 余子俊は、あざなを士英といい、青神の人です。署款に「陝西右布政使」とありますが、のち孝宗のとき、兵部尚書に至りました。陝 西在任中、西安の漢の故城から渭水に達する渠を開き、大いに人々の利便を計り「余公渠」と呼ばれ喜ばれたといいます。
 余子俊は跋文で、「たまたま毫釐の差のあるのは、特に一時の鉄筆が、まだ巧でなかったのみである。その筆法においては少しも劣るべきものではない。ここに石に刻して、学者と之をともにせんことを期す」と言っています。こうしたことが原因してか、この西安本は、貞元9年(793)懐素59歳の《聖母帖》に比べて劣っているという評もあります。ともあれ、西安本は刻手の巧と否にかかわらず《小字千字文》とは全く別なもので、《小字千字文》に見られるような古淡な味わいのあるものではありません。
 西安本の摸刻は2個の原石の両面に、それぞれ2 段に区切って刻され、第2石の裏面の上段には千字文の最後の部分に続き余子俊の跋文が、下段には「前出塞九首」が刻されています。第1石の裏面には《重修灞橋落成詩》が刻されています。
 《千字文》の書は、草書の意が強く大小の変化に富み、形連の表現が多くなっています。1字1字は懐の大きい奇抜な構えで、しかも形に捕らわれることなく、筆圧の変化と肥痩の取合わせが自然で、穂先の開閉が線に自転自在な躍動的な息吹をほとばしらせ、この書に接すると一種の侵しがたい気魄に打たれます。こうした書風は懐素が魏晋の古い書法を良く学び、そこから脱却して打ち立てた古法に拘束されない新しい書風といえます。